二十五世本因坊治勲も戦慄! 石榑郁郎九段が木谷道場に日参していた理由

イラスト:石井里果
『NHK 囲碁講座』の連載「二十五世本因坊治勲のちょっといい碁の話」。師匠・木谷實九段、呉清源九段の思い出から、石田章九段へのジェラシー、王立誠九段に対する恨み言まで、趙治勲(ちょう・ちくん)二十五世本因坊ならではの語り口で紡がれるエッセイは、碁界においてのみならず、広く人気を博しています。8月号は木谷道場の囲碁三姉妹編 その3。清楚で物静かな石榑(いしぐれ)まき子三段(旧姓・大代)と、石榑郁郎(いしぐれ・いくろう)九段の思い出を語ります。

* * *

ぼくが入段(プロ入り)したあとくらいだったかな。郁郎さんがね、木谷道場に姿を現しました。ぼくの記憶ではそれまで一度も来たことはなかった。いったい誰なんだこの人は、っていうのが第一印象です。そしたらね、郁郎さんはそれから毎日、顔を見せるようになった。雨が降ろうが雪が降ろうが槍(やり)が降ろうが大きな台風が上陸してようが、とにかく毎日毎日やってくる。ちょっとした戦慄を覚えましたよ、ぼくは。2、3年は続いたかなあ。
だんだんと顔も覚え、少しは会話も交わすようになった。毎日同じ顔を見ていると、人は警戒心が薄らいでいくものです。しかし、またまたある日突然、郁郎さんは道場に来なくなりました。昨日までの数年間、毎日通っていた人が姿を現さなくなった。これもある意味、戦慄です。戦慄が走るというのかな。いったいあの人は何をしたかったのだろう。不思議でした。郁郎さんはぼくの中では謎の人物となりました。
この謎が解けたのは郁郎さんが来なくなってしばらくしてから。とんでもないショッキングな事実をぼくは聞かされることになります。なんと、まき子さんを射止めたのです。郁郎さんは碁の勉強のために道場に来ていたのではない。山口百恵ちゃんのような、清楚(せいそ)で美しい天使のようなまき子さんを、あの男は虎視眈々(こしたんたん)と狙っていたのです。なぜ気付かなかったのか! ぼくは大人の怖さを知りました。さらに驚くことに、郁郎さんは以降、道場には一度たりとも来ていないはずです。
まあ、悔しいけれど、郁郎さんの人を見る目、物を見る目、盤上を見る目はどれも一級品です。皆さんは郁郎さんの詰碁を解いたことありますか? あれはね、天下一品ですよ。ぼくは郁郎さん以上の詰碁作者はいないとさえ思っています。
プロの目からするとそんなには難しくない。これはぼくもいちばん大事にしているんだけど、いかにも実戦に出てきそうな雰囲気なんだなあ。そして問題自体はピリ辛で、解いたときには達成感に包まれる。郁郎さんの右に出る人はいないでしょう。詰碁を創作している棋士はたくさんいるけれど、どうも難しすぎるんだよね。郁郎さんにはぜひ、詰碁の本をたくさん残してほしい。ここを読んでいる出版社の方がいたらぜひお願いします。ぼくが推薦します!
郁郎さんはゴルフが趣味。ゴルフなしでは生きていけないくらいにのめり込み、腕前もかなりのレベルです。それにゴルフにはね、郁郎さんの好きなものが全部詰まっていた。まず車。ゴルフ場への行き帰りはいつも郁郎さんが引き受けてくれた。運転が好きなんですよ。お酒が飲めないからちょうどいいってね。そしてもうひとつ、郁郎さんはおしゃべりが大好き。運転中はずーっとしゃべっている(笑)。付き合うほうは大変だけど、送り迎えをしてくれるんだからこれくらいは我慢できる。いやいや、幸せなくらいですよ。
そんな郁郎さん、再びある日突然、ゴルフをしなくなった。これもずっと謎だったんだけど、数年前にこんなうわさを聞きました。まき子さんが病にかかり、看病に専念するためだったらしいと…。
まき子さんは平成11年に天国へ。早かったとは思うけど、郁郎さんの愛と誠意に包まれて、充実した中身たっぷりの人生だったと思います。郁郎さんには「誠」という言葉がピッタリだね。心から尊敬する棋士です。
■『NHK囲碁講座』2015年8月号より

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