「真裸」が意味する痛み──短歌にうたわれた心、言葉、身体

『NHK短歌』の連載「こころ・ことば・からだ」では、「まひる野」同人の染野太朗さんが短歌にじっくりと向きあい、心と言葉と身体の関係に焦点を当てて解説をしています。

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四月号では「心は時空を超えるが、身体(からだ)は〈今、ここ〉を離れることができない。その点では対照的だが、心と身体は言葉を介することでどうやら連動しているようだ」ということを、五月号では「対象がたとえ動物であってもその対象の身体の感覚を感じることができるのは、言葉があるからこそではないか」ということをお話ししました。また「身体は、心を救ってくれるのだろうか」という問題提起もしました。
そういった話を土台として、今月以降も、またいくつかの短歌をじっくりと読み、心・言葉・身体それぞれの特徴やその関係について、さらに考えていこうと思います。
貧困のまんなかに聳え立ちつづけアンコールワットは真裸にして

今井恵子『白昼』


「真裸」という語から、僕たちはどのようなイメージを抱(いだ)くでしょうか。アンコールワット(カンボジア)ですから、そこには強い日射しが照りつけている。その場から離れることなく、日射しを直接受けて、大量の汗を流している。覆うものなどない姿で「貧困」の現実をまっすぐに見つめている。この寺院が炎天下で怒っているような印象さえ僕は抱きました。対象は建築です。けれども僕たちは「真裸」という語により、その建築を人間の感覚に引き寄せ、建築には生じるはずのない体感を味わうことができる。そしてその体感をもって一首を味わうことができる。カンボジアの歴史や貧困の現状を詳細に知っていれば、よりこの「真裸」の意味する痛みや息苦しさが感じられるかもしれません。
パッシー駅そのむこうには川が見え藍のセーヌの背中うつくし

松平盟子『カフェの木椅子が軋むまま』


趣(おもむき)はまったく異なりますが、海外の歌をもう一首。「パッシー駅」はパリの十六区に位置する、セーヌ川のすぐそばの駅です。駅から出て、まず川を見つけ、その川がセーヌ川であることを認識し、けれども「セーヌ川」などと呼んでしまわず、人に見立てています。「セーヌ川」は仏語で女性名詞として扱われますし、ここでは女性がイメージされているはずです。やわらかく美しいもの、あるいはすこし艶っぽいものとして川を眺めているのかもしれません。「背中」という語が、読者のイメージをかきたててくれます。もちろん川は、人間のサイズを超えています。けれどもそこにある質感は、人間である読者に、確実に届くわけです。
■『NHK 短歌』2015年6月号より

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