対立差別を解消するためには──荘子の「万物斉同」という思想

荘子(荘周)(『三才図会』より)
今からおよそ2300年前の中国で成立したとされる『荘子』。その根本にある思想「万物斉同(ばんぶつせいどう)」について、作家・僧侶の玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)氏が逸話を引きながら解説する。

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荘子は老子が説いた「道」というテーマを受け継いでいます。「道」とは、荘子によれば渾沌たる非存在です。いまだ何も存在しておらず、それは「無」に等しい。無に等しいということは、「斉同」、つまり、みな斉(ひと)しいという状態です。その斉同なる無から万物が生まれてくるわけですから、全てのものは元をたどれば斉しい(万物斉同)ということになります。
ではなぜ、荘子はそのような万物斉同の見方の必要性を説いたのでしょうか。そこにはおそらく、余計な対立や差別を解消したいという思いがあったのでしょう。荘子は対立差別が解消される見方というものを、「天鈞(てんきん〈天均〉)」という言葉で提示しています。天から見れば全てのものはつりあっているということです。また「天倪(てんげい)」という言葉も使っています。天の高さから眺めれば、区別や対立などというものはおよそちっぽけでつまらないものになるという意味です。そういう見方を獲得し、差別を超えた自然の立場で和するということが、荘子の願いなのだろうと思います。
言葉というものは、その性質上、どうしても対立差別を促します。ですから、そうした荘子の願いも本来であれば無言で表現すべきものなのかもしれません。あるいは、「巵言(しげん)」という臨機応変の言葉で表現するしかないのかもしれません。『荘子』の中では、そうした言葉を駆使し、さまざまな角度から万物斉同の思想が述べられています。ここでは人間の価値判断というものが生む対立を無化する「道は屎溺(しにょう)にあり」の逸話を、知北遊篇から紹介します。
東郭子(とうかくし)が荘子に訊ねました。「いわゆる道というのは、どこにあるのでしょう」。すると荘子は「どこにでもあるよ」と答えます。以下、会話はこう続きます。
東郭子「具体的に言ってほしいな」
荘子「じゃあ螻(けら)〈オケラ〉とか蟻(あり)かな」
東郭子「ずいぶん下等なんだね」
荘子「稊稗(いぬびえ)にもあるよ」
東郭子「もっと下等じゃないか」
荘子「瓦や甓(しきがわら)にだってあるよ」
東郭子「まいったなぁ」
荘子「屎溺(しにょう)にもある」
あまりのことに東郭子は黙ってしまいますが、荘子は続いて、東郭子の質問自体が本質を突いていないと批判し、道はものがあるかぎりどこにでもあるのだから、限定的に見てはいけないと述べます(「汝(なんじ)、唯(ただ)必(ひっ)すること莫(な)かれ。物より逃るることなければなり」)。至道とか大言というのも同じことで、要するにその特徴は「周」「徧(へん)」「咸(かん)」、つまり、「あまねく」「ことごとく」だというのです。
荘子は、「これは立派なものだ」「これは卑しいものだ」という思い込みを否定したいのでしょう。人間の分別によって卑小とされるものをことごとく復権させて、大笑いをしているように見えます。人間がつまらないと思っているものの中にも道はある。「真の主宰者」(斉物論篇)というような人がものの価値をコントロールしていると思えるかもしれないが、そうではなく、道はどこにでも行きわたっているというのが荘子の主張です。しかも、道は常に具体を離れず、あまねく、ことごとく、あなたが卑小だと思っているどんなものにもあるのだと言います。
斉物論篇に、「未だ始めより物有らずと為す者」が「至れり尽くせり」だ、という言葉があります。荘子によれば、価値判断以前に、ものの識別をしないという人が最高なのです。
■『NHK100分de名著 荘子』より

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