「最も負かすのが難しい棋士」と呼ばれた王 立誠九段のルーツ

撮影:小松士郎
棋聖3連覇、十段4連覇をはじめとして数々のタイトルを獲得し、世界戦では2度の優勝を果たすなど、平成の囲碁史に確実な足跡を残した王立誠(おう・りっせい)九段。
「逆転の立誠」「立誠マジック」と称された驚異的な勝負強さは異彩を放ち、ライバルたちからはため息交じりに「最も負かすのが難しい棋士」と呼ばれたものであった。この粘り強さはどこから生まれたのか──そのルーツを語っていただこう。

* * *


■来日と入段まで

僕が7歳のとき、林海峰先生が23歳で日本の名人となり、台湾ですごい囲碁ブームが起こったのです。それでアマ4、5級の父が「おまえも囲碁をやってみないか」と言ってきたのがきっかけでした。小学校に囲碁ができる先生がいたこともあり、すぐ夢中になりました。
上達は速かったと思います。いろいろな大会に出て活躍し、父もそれが楽しみであちこちに連れていってくれました。小学校高学年になるころにはかなり有名になっていて、天才少年などと呼ばれていたものです。
小学校6年生のとき、加納嘉徳先生(九段=故人)が日本の学生選抜チームの監督として台湾に来られました。このときに僕は加納先生に指導碁を打っていただいたのですが、そのあと父が加納先生に手紙を出したのです。「息子を日本に囲碁留学させたい」と。それを先生が受けてくださり、僕の日本行きが決まりました。
父が僕を“第二の林海峰”にしようと考えていたかどうかまでは分からないのですが「とにかく日本でプロになってほしい」とは思っていたようです。それで小学校を卒業後、日本へと旅立ちました。
加納先生のお宅に内弟子という形でお世話になりましたが、最初は寂しかったですね。言葉もほとんど話せませんし…。
そして院生はBクラスからスタートしたのですが、いちばん上の特Aクラスに、僕より年下の人がいたのには本当にびっくりしたものです。これが小林覚さんで、すごい人がいるなぁと思ったと同時に、日本のレベルの高さを改めて思い知らされました。
来日した際の約束として、2年で入段できなかったら台湾に帰されるという話になっていたので、必死の毎日。精神的にも苦しく、当時はよく院生手合の夢とかを見ました。必ずと言っていいほど負ける夢で、その帰り道でずっと泣いているという内容が多かったですね。
それでも僕は運よく、1年目で入段することができました。これで台湾に帰されずに済んだと、ホッとしたことを覚えています。片岡聡さんと山城宏さんなどが同期入段でした。山城さんは名古屋だったので、若いころはあまり交流がなかったのですが、片岡さんとは、同じアパートの隣の部屋同士で暮らした時期がありました。ものすごい勉強家で、彼の部屋からは石音しか聞こえてこなかったものです。一方で僕は中華学校に通っていたこともあって、けっこう楽しく遊んでしまっていました。
そして小林覚さんは、僕より2年遅れて入段したのですが、三段になるのは彼のほうが早かった。僕の気が緩んでいた証拠なのですが、入段を果たしたことで力が抜けてしまっていたのです。通常は入段したその年に二段に昇段する人が多いのですが、僕の場合は2年半かかっていますから…。
今になって振り返れば、ずいぶんと無駄な時間を過ごしたようにも思います。ですから今の若い人にアドバイスするとすれば「若いうちは目標を決めて、それに向かって努力したほうがいい」ということでしょうか。僕はあまりに漠然と過ごしてしまいました。
■『NHK囲碁講座』2015年4月号より

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