アンネ・フランク一家を命がけで支えた女性「人間として当然のことをしただけ」

アムステルダムに現存する隠れ家(アンネ・フランク・ハウス)
『アンネの日記』の著者アンネ・フランクは、4才のときに生まれ故郷のドイツからオランダ・アムステルダムへ移住してきた。モンテッソーリ・スクールの幼稚園、小学校へ通ったが、エッセイ『アンネ・フランクの記憶』などを著した作家の小川洋子(おがわ・ようこ)氏は、「アンネが本当の意味で子どもらしい時間を楽しめたのは、モンテッソーリ・スクール時代まででしょうか」と述懐する。ドイツ軍によるユダヤ人弾圧が始まり、アンネはユダヤ人中学校への入学を余儀なくされたからだ。そして1942年、アンネの姉マルゴーに出頭命令が下されたことをきっかけに、いよいよ隠れ家での生活が始まる。その苦しい日々を命がけで援助した支援者の存在をご存じだろうか。

* * *

マルゴーに出頭命令が下されたことで、父オットーの予定に若干の狂いが生じます。一家の隠れ家への退避を前倒しにする必要が出てきたのです。一気に準備を加速する家族の傍(かたわ)らで、詳しいことを知らされなかったアンネは「どこに隠れるんでしょう。町かしら、田舎(いなか)かしら」と、戸惑いを隠せません。とにかく荷づくりをしなければいけない状況のなか、アンネが真っ先に大事なものとして通学鞄(かばん)に詰めたのは、もちろん日記帳でした。
子どもたちにもさとられないように進められた隠れ家への退避準備。そのおもな協力者は、会社の経営を引き継いだヨハンネス・クレイマンと、オットーの右腕として会社を支えてきたヴィクトル・クーフレル、女性従業員のミープ・ヒースと事務員のベップ・フォスキュイルです。彼らの献身はたんなる事業主と被雇用者の関係を大きく超えるものでした。その信頼関係を示すくだりが、のちにミープ・ヒースが記した『思い出のアンネ・フランク』にあります。
オットーに、会社の裏の部屋に隠れようと思う、ついてはあなた方の支援がなければそれは不可能なのでよく考えてほしいと言われ、ミープは許諾を即答します。
一生に一度か二度、ふたりの人間のあいだに、言葉では言いあらわせないなにかがかようことがある。いま、わたしたちのあいだに、そのなにかがかよいあった。「ミープ、ユダヤ人を支援する罪は重いよ。投獄されることはおろか、ことによると──」
 
わたしはさえぎった。「『もちろんです』と申しました。迷いはありません」

(ミープ・ヒース、アリスン・レスリー・ゴールド著
『思い出のアンネ・フランク』深町眞理子訳、文春文庫)



この時点でオットーとミープはすでにかなり強い絆(きずな)で結ばれていたことがわかります。並みの頼まれごとではない、命を賭(と)した支援──。政治的な信条とは別の、自分の親しい人が目の前で困っている現実があり、それを理屈抜きで助けたい、という愛に根差(ねざ)した行動でした。組織立って抵抗運動をしていた人々からの援助ではなく、友人たちの善意による支援だったのです。
なぜ、それができたのか──。これはわたしが1994年にミープさんと面会したときにもっともぶつけてみたい質問でした。でも、確たる答えは得られなかった。ただ彼女は「それは人間だからだ」という意味の言葉を口にしただけです。人間として当然のことをしただけだ、と。
『アンネの日記』は、ユダヤ人が弾圧された時代、大勢の非ユダヤ人がなにかしら自分でできることをしようと努めた事実を証明しています。もちろん、わずかばかりのお金のためにユダヤ人狩りに協力する密告者も、同時に存在しました。もしも自分がこの時代に生きていたらどういう行動を取るだろうか──。そうした問いを、日記は私たちに突きつけてきます。道義的にふるまいたいと思っても、時代の流れや恐怖心から誤った行動を取らないとは限らない。わたし自身、人間として間違いを犯さない自信などどこにもありません。
しかしミープ・ヒースは、最後までフランク一家を支えました。配給制が敷(し)かれ、オランダ人でさえ食料がなかなか手に入らないなか、アンネたちのために偽造の配給切符を取得し、遠い店まで足を運び、長い列に並んで食料を調達してくる。どれほどの疲労を伴うことだったかと想像しますが、彼女にそう尋ねると、一番辛かったのはそうした肉体的な問題ではなく、秘密をずっと抱えたままでいなければならなかったことだと答えました。命に関わる秘密を守り続ける日々は、確かに精神的な重荷だったでしょう。ミープ・ヒースは黙って耐えました。それは見返りを求めない、真の献身だったのです。
ミープ・ヒースがとても行動的で、勇気ある女性であるのは間違いありません。アンネたちが連行されたあとも、なんとかお金で解決できないかとゲシュタポの本部まで直談判(じかだんぱん)に出かけていったほどの勇敢さを持っています。しかし、彼女が特別な才能や、特権的な地位を持っていたわけでもない、名もなき一市民であったのもまた事実です。彼女と同じく、自らの命を賭して勇気ある行動をした無名の人々は、他にも大勢存在していました。
■『NHK100分de名著 アンネの日記』より

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