中原誠十六世名人、人生の師と仰ぐ高柳敏夫名誉九段との日々

高柳敏夫名誉九段(左)、中原誠十六世名人(右) 写真:河井邦彦
中原 誠(なかはら・まこと)十六世名人が高柳敏夫(たかやなぎ・としお)名誉九段の内弟子に入ったのは、小学4年生のとき。内弟子というのは、師匠の家に住み込んで雑用をしながら修業する制度である。兄弟子の芹沢博文九段に稽古をつけてもらい順調に昇級昇段するが、三段リーグを抜けるのに手間取る。しかし、四段になってからは一気に花開き、中原時代を築くに至る。
独立後は将棋のみならず人生の師と仰いだ高柳名誉九段との日々を、中原十六世名人が振り返る。

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■師匠の指導法

入門から8年で四段へ。奨励会に入会してからでは7年半だから遅い方だ。桐山清澄さんとの東西決戦の少し前、焼き鳥や鰻(うなぎ)をごちそうになった。激励のことばは特になかったが、励ましの気持ちを感じた。
師匠の指導法は自身の年齢や弟子の資質によって少しは変わったが、基本としてはおおらかであり、自由なところがあった。弟子の自主性を伸ばそうと思ったのだろうか。
芹沢さんのときには厳しい一面もあったようだが、清水市代さんに対しては、私がやきもちを抱きかねないほど接し方が違ったから、やはり師匠の年代によるものだと思う。
20歳、五段のとき独立した。ちょうど10年間お世話になったわけで、ありがたいことだ。3か月後、棋聖戦の挑戦者になった。
独立してからもいろいろお世話になった。いやむしろ、それからの方が人生の師といえるかもしれない。思い出すままに書いてみる。
タイトル戦に出るようになったが、対局前夜、場所が変わるせいもあり、よく寝られないと相談したこともあった。すると、師匠はいとも簡単に「若いんだから一晩くらい寝られなくても大丈夫。ただ横になって休んでおけ」といわれて、非常に気が楽になったことがある。
名人戦に初めて出たときは一局ごとに指し手の感想をいわれて参ったこともあった。特に第2局は大山康晴名人の名局といわれたが、私にとっては惜敗だけに局面がちらついてしかたがなかった。ようやく収まって、次に向けてと思っているときに師匠から電話があった。このときばかりは「忘れようと思っているので」というような意味のことをいった。
師匠と金(易二郎名誉九段)先生は対局の経過を楽しみにしていたらしい。と同時に、心配でもあったろう。私もいま甲斐智美さんのタイトル戦を見るようになってわかることだ。いまの方がネット中継があり情報が早いが、あまりのめり込まないようにしている。

■推理小説と水石

師匠は多趣味であった。ギャンブルはひととおりやったのではないか。競馬では一緒に共同馬主になったこともあった。原稿を書いていたためか、読書家だった。推理小説を山村正夫さんと共作したこともある。犯人を当てるのが早く、かなり前からわかった。
私も推理小説は好きだが、とてもあんなに早くはわからない。最近、読んだものでも残り20ページになってもダメで情けなかった。
料理も好きで、板前になりたかったと聞いたことがある。気分のいいときは自分でソバを作ったりした。海老(えび)のむき方や寿司(すし)の食べ方を教わったりした。
晩年になってからは水石を集めることに凝った。全国の川に行き、河原で拾うのだが、形や模様のおもしろいものを探す。私も同行したことがあったが、さすがに慣れたもので早かった。
同好の士が集まって展示会が湯島天神で開かれたりした。水盤に入れた石をメーンにして、掛け軸や花を飾ったりでひとつの世界を作る。なかなか凝ったもので、私も掛け軸用の書を頼まれた。孫子の長いことばを指定されたときは苦労したり、忙しいときは閉口したものだ。
私のところにも二つあり、ひとつは丹沢の大山に似た形のもので気に入っている。
将棋を深く追求する上において、ほかのことからヒントを得ることもある。いろいろなことに興味を持つことは大切と、思っていたのではないか。私も知らず知らずのうちに影響を受けたと思う。
師匠は多くの弟子を育てた。弟子の育成ではとうてい及ばない。私の門下では小倉久史七段が熱心で楽しみである。そしてほかの高柳一門の人たちも。
この流れが続いていくことを祈っている。
■『NHK将棋講座』2015年3月号より

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