『フランケンシュタイン』の「怪物」とは何者か
- メアリが『フランケンシュタイン』執筆の着想を得たスイス・レマン湖畔の別荘
科学者ヴィクター・フランケンシュタインが生み出した怪物は、無垢(むく)で優しい心を持って生まれた。しかし、生みの親に見捨てられたことで怒りと復讐に支配されるようになる。
19歳の女性作家メアリ・シェリーが生み出した名作『フランケンシュタイン』で描かれるこの「怪物」とは一体何者なのだろうか。京都大学大学院教授の廣野由美子(ひろの・ゆみこ)氏が考察する。
* * *
「怪物とは何か?」という問題を考えるときに抜かすことのできないもの──それは「創造主」と「被造物」の関係、つまり「生む側」と「生まれる側」の関係が作品の原点にあるということです。メアリ・シェリーは『フランケンシュタイン』の執筆に先立ち、ミルトンの『失楽園』を二度にわたって読んでいます。彼女が『フランケンシュタイン』の創作にあたってミルトンを強く意識し、『失楽園』をライトモチーフとして創造主と被造物の対立を描こうとしていたことは、次のような『失楽園』からの引用が、題辞として掲げられていることからも明らかです。
創造主よ、私は、土くれから人間の形にしてくださいと、あなたに頼みましたか?
暗闇から私を導き出してくださいと、懇願したでしょうか?
(第10巻743—745)
題辞とはその作品の始まりに先立って最初に引用されるもので、自分はこれを下敷きにしている、という作者自身からのメッセージでもあるわけです。
この文言は、楽園から追放されたアダムの嘆きの言葉の一部ですが、『フランケンシュタイン』でアダムの状況に置かれているのは怪物です。つまりこれは、自分の創り主であるヴィクターに対する怪物の訴えの言葉として響いてくるのです。怪物にとって、ヴィクター・フランケンシュタインとは「創造主」であり、「神」だったのです。
怪物自身も、直接こう訴えます。
「おまえがおれを創ったのだということを、忘れるな。おれは、おまえのアダムだぞ。まるで、何も悪いことをしていないのに、おまえに追い立てられて、喜びを奪われた堕天使みたいじゃないか」 (第10章)
怪物が述べるとおり、怪物の立場はアダムとサタン(悪魔)の両方を兼ね具(そな)えています。ヴィクター・フランケンシュタインは、怪物に対して神のように振る舞いますが、その振る舞い方は『失楽園』の神とはまったく異なるものでした。ミルトンの描いた神は、アダムがひとりぼっちにならないようにと女の伴侶を創り与えましたが、ヴィクターはいったん完成しかけた女の伴侶を破壊してしまうばかりか、怪物にいかなる救いも与えようとしません。彼は怪物に「おまえと私の間には、つながりはありえない。我々は敵同士なのだ」と言ってはばからないのです。そのような無慈悲な創り主に対して、怪物は悪魔のごとく反逆したのです。
『失楽園』のモチーフに照らして見たとき、「怪物」とは「神によって創られたのち見捨てられ、反逆する者」として定義づけられます。
しかし、「創造主」と「被造物」の関係は、たんにキリスト教の枠組み内にとどまる問題ではありません。拡大解釈すると、これは私たち人間の「親」と「子」の歪んだ関係にも、根本においてつながる問題であるとさえ言えます。なぜなら、それは「生む側」と「生まれる側」の関係にも置き換えられるからです。
生まれた子の立場から見ると、親による虐待・ネグレクトなどは、怪物がヴィクターから受けた無情で無責任きわまりない態度と重なり合います。逆に親の立場から見ると、子とは自分が生んだものでありながら、自分にとって制御のできない、時としては自分に歯向かい、重い責任を負わせる──ある意味で怪物的な──存在です。そしてこの「生む側」と「生まれる側」とは、ヴィクターと怪物がそうであったように、どこまでも追いかけ合うという宿命を背負った関係だと言えるかもしれません。
怪物が最後までヴィクターを殺そうとしないのも、どんなに憎もうとも自分を生み出した親であるがゆえに、愛情を乞う気持ちが捨てきれなかったからだとも考えられます。怪物は、とにかく愛情に飢えていた。女の怪物が欲しいと言いはしたものの、最も欲しかったのは親の愛情であり、それゆえ彼からの愛を最後まで求めつづけましたが、それが叶(かな)うことはありませんでした。私はふとそこに、虐待された子供が、なぜか親をかばって、事実を他人にひた隠しにするといった現象が間々見られることなどを、思い出したりもします。
「親」と「子」の関係をさらに拡大し、「社会」と「個人」の関係に置き換えてみましょう。個人は社会に属し、社会の性質は個人にも影響を及ぼします。怪物が「創り主の手を離れて、手に負えなくなる存在」であるなら、個人としての彼(怪物)は、自分を生み出した者、そして自分に同情しない社会に対して、復讐を企てる者となります。すると「怪物」の概念は、社会の病弊としての「犯罪者」の存在にも重なってくるように思えるのです。
たとえば殺人という、想像を絶する許し難い罪を犯す人間は、私たちに恐怖や不安を与えるがゆえに、「怪物」のような存在と感じられがちです。少なくとも被害者やその周囲にとって、殺人犯は怪物以外の何者でもありません。しかし『フランケンシュタイン』の物語は、怪物が生まれてきたのには理由があり、怪物に育ったプロセスがあるのだ、ということを主張しています。したがって、それをいかに受けとめるべきかは、現代社会における隠喩としての「怪物」を、私たちがいかに扱うべきかという重たい問題とも結びついてくるのです。
■『NHK100分de名著 メアリ・シェリー フランケンシュタイン』より
19歳の女性作家メアリ・シェリーが生み出した名作『フランケンシュタイン』で描かれるこの「怪物」とは一体何者なのだろうか。京都大学大学院教授の廣野由美子(ひろの・ゆみこ)氏が考察する。
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「怪物とは何か?」という問題を考えるときに抜かすことのできないもの──それは「創造主」と「被造物」の関係、つまり「生む側」と「生まれる側」の関係が作品の原点にあるということです。メアリ・シェリーは『フランケンシュタイン』の執筆に先立ち、ミルトンの『失楽園』を二度にわたって読んでいます。彼女が『フランケンシュタイン』の創作にあたってミルトンを強く意識し、『失楽園』をライトモチーフとして創造主と被造物の対立を描こうとしていたことは、次のような『失楽園』からの引用が、題辞として掲げられていることからも明らかです。
創造主よ、私は、土くれから人間の形にしてくださいと、あなたに頼みましたか?
暗闇から私を導き出してくださいと、懇願したでしょうか?
(第10巻743—745)
題辞とはその作品の始まりに先立って最初に引用されるもので、自分はこれを下敷きにしている、という作者自身からのメッセージでもあるわけです。
この文言は、楽園から追放されたアダムの嘆きの言葉の一部ですが、『フランケンシュタイン』でアダムの状況に置かれているのは怪物です。つまりこれは、自分の創り主であるヴィクターに対する怪物の訴えの言葉として響いてくるのです。怪物にとって、ヴィクター・フランケンシュタインとは「創造主」であり、「神」だったのです。
怪物自身も、直接こう訴えます。
「おまえがおれを創ったのだということを、忘れるな。おれは、おまえのアダムだぞ。まるで、何も悪いことをしていないのに、おまえに追い立てられて、喜びを奪われた堕天使みたいじゃないか」 (第10章)
怪物が述べるとおり、怪物の立場はアダムとサタン(悪魔)の両方を兼ね具(そな)えています。ヴィクター・フランケンシュタインは、怪物に対して神のように振る舞いますが、その振る舞い方は『失楽園』の神とはまったく異なるものでした。ミルトンの描いた神は、アダムがひとりぼっちにならないようにと女の伴侶を創り与えましたが、ヴィクターはいったん完成しかけた女の伴侶を破壊してしまうばかりか、怪物にいかなる救いも与えようとしません。彼は怪物に「おまえと私の間には、つながりはありえない。我々は敵同士なのだ」と言ってはばからないのです。そのような無慈悲な創り主に対して、怪物は悪魔のごとく反逆したのです。
『失楽園』のモチーフに照らして見たとき、「怪物」とは「神によって創られたのち見捨てられ、反逆する者」として定義づけられます。
しかし、「創造主」と「被造物」の関係は、たんにキリスト教の枠組み内にとどまる問題ではありません。拡大解釈すると、これは私たち人間の「親」と「子」の歪んだ関係にも、根本においてつながる問題であるとさえ言えます。なぜなら、それは「生む側」と「生まれる側」の関係にも置き換えられるからです。
生まれた子の立場から見ると、親による虐待・ネグレクトなどは、怪物がヴィクターから受けた無情で無責任きわまりない態度と重なり合います。逆に親の立場から見ると、子とは自分が生んだものでありながら、自分にとって制御のできない、時としては自分に歯向かい、重い責任を負わせる──ある意味で怪物的な──存在です。そしてこの「生む側」と「生まれる側」とは、ヴィクターと怪物がそうであったように、どこまでも追いかけ合うという宿命を背負った関係だと言えるかもしれません。
怪物が最後までヴィクターを殺そうとしないのも、どんなに憎もうとも自分を生み出した親であるがゆえに、愛情を乞う気持ちが捨てきれなかったからだとも考えられます。怪物は、とにかく愛情に飢えていた。女の怪物が欲しいと言いはしたものの、最も欲しかったのは親の愛情であり、それゆえ彼からの愛を最後まで求めつづけましたが、それが叶(かな)うことはありませんでした。私はふとそこに、虐待された子供が、なぜか親をかばって、事実を他人にひた隠しにするといった現象が間々見られることなどを、思い出したりもします。
「親」と「子」の関係をさらに拡大し、「社会」と「個人」の関係に置き換えてみましょう。個人は社会に属し、社会の性質は個人にも影響を及ぼします。怪物が「創り主の手を離れて、手に負えなくなる存在」であるなら、個人としての彼(怪物)は、自分を生み出した者、そして自分に同情しない社会に対して、復讐を企てる者となります。すると「怪物」の概念は、社会の病弊としての「犯罪者」の存在にも重なってくるように思えるのです。
たとえば殺人という、想像を絶する許し難い罪を犯す人間は、私たちに恐怖や不安を与えるがゆえに、「怪物」のような存在と感じられがちです。少なくとも被害者やその周囲にとって、殺人犯は怪物以外の何者でもありません。しかし『フランケンシュタイン』の物語は、怪物が生まれてきたのには理由があり、怪物に育ったプロセスがあるのだ、ということを主張しています。したがって、それをいかに受けとめるべきかは、現代社会における隠喩としての「怪物」を、私たちがいかに扱うべきかという重たい問題とも結びついてくるのです。
■『NHK100分de名著 メアリ・シェリー フランケンシュタイン』より
- 『メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』 2015年2月 (100分 de 名著)』
- NHK出版 / 566円(税込)
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