『ハムレット』は哲学である

シェイクスピア時代のグローブ座は、1613年、『ヘンリー8世』を上演中に舞台で使った大砲の火が引火して焼失。翌年に再建されたが、1644年にピューリタン革命により取り壊された。写真は1997年に復元されたグローブ座
『ハムレット』の第一幕第一場は、二人の歩哨(ほしょう)による次の台詞で幕を開ける。
バナードー 誰だ。
フランシスコ なに、貴様こそ。動くな、名を名乗れ。
真夜中の12時、先に城壁の歩哨に立っていたフランシスコが、あとから来たバナードーに逆に誰何(すいか)されてしまう──。東京大学大学院教授の河合祥一郎(かわい・しょういちろう)氏は「このアイデンティティの問いかけは、作品全体のモチーフを予告するものです」と語る。その意味するところを聞いた。

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一見すると何気ない、幕開けの「誰だ」(Whoʼs there?)という台詞は、誰何するべき相手に先に誰何されるという関係性の転倒によって、「ここにいる私とは誰か?」という問いと呼応しています。ひいてはこの最初の台詞は作品を通して、そもそも人間が存在するとはどういうことなのか、人間とはそもそも何なのか、という問いにまでつながっていくのです。「人間とは何だ」(What is a man)という台詞もあとでそのまま出てきますが(第四幕第四場)、この作品は存在の問題を追求するもの、いわば“存在の研究”(study of being)である、というのが私の持論なのです。
つまり『ハムレット』という作品は単なる復讐劇ではなく、人はなぜ生きるのか、いかに生きていくべきなのか、という哲学を描いたものだということです。ただし、これはロマン派が考える近代以降の哲学とは違います。ここで問われているアイデンティティは、私たちのような近代的自我のアイデンティティとはいささか異なるものだということに、注意しておかなくてはなりません。『ハムレット』が書かれた1600年頃はルネサンスの時代であり、ちょうど中世と近代のはざまの時代です。
哲学者ニコラウス・クザーヌスの「神の照覧あるが故に我在るなり」(神様が私をご覧になっているから、私は存在する)という言葉に象徴されるように、中世における自我は、自分ひとりで存在することはできず、常に神とともに受動的に世界に在るというものでした。それに対して、ルネ・デカルトの「我思う故に我在り」(コギト・エルゴ・スム、英語ではI think therefore I am)になると、神よりも理性を信じる時代となり、自分ひとりで考え、それによって主体が自立的・能動的に世界に存在することができる。それが近代的自我のはじまりです。『ハムレット』は、中世を引きずりながらも、まさに近代へと羽ばたこうとする時代に書かれました。デカルトの〈コギト〉は1637年の『方法序説』に登場するのですが、それはちょうどシェイクスピアの一世代あとなのです。
逆に言えば、シェイクスピアの『ハムレット』は、デカルトに先んじて、近代的自我の原型のような主体を提示しているとも言えます。ただ、神とともにある中世から近代へと移り変わってゆくなかで、作者であるシェイクスピア自身も揺れ動いていて、熱情(passion)のなかで生きるという中世的な生き方と、理性(reason)で考えて生きるという近代的な生き方のはざまで揺れているのです。結論から言ってしまうと、ハムレットは近代的自我に引き寄せられていくけれども、けっきょく近代的自我では解決せず、最後はやはり「神の摂理」に委(ゆだ)ねる──俺がひとりで悩んでいてもしょうがないのだ、という大きな悟りに至ります。そこが哲学的に、とても深いところだろうと私は思います。
近代的自我には弱点があります。たとえば私たちはいま、スマートフォンや携帯電話やソーシャル・ネットワークでお互いにつながっているかのように見えているけれど、それで本当にコミュニケーションがとれているのかというと、非常に不安があると思うのです。逆にそういったものなしではコミュニケーションがとれない弱い生き方になっていないでしょうか。それなしでは他者とのつながりがどこにあるのかわからなくなり、底無しの不安に陥(おちい)ってしまう。そこにあるのは孤立した自我であり、それが行き場をなくしてしまうと、自殺や、突発的な無差別殺人のような暴力も起こる。
ところが中世的な自我のあり方では、神や自然といった絶対的な他者とつながることで、自分が存在しています。神に見守られているだけでなく、シェイクスピアの喜劇『夏の夜の夢』で言えば妖精のような、自然のなかの何ものかが常に自分とともに在るのです。
■『NHK100分de名著 シェイクスピア ハムレット』より

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