近代小説のなかで、一人称の語り手"私"はどう描かれてきた?

「私」をつくる――近代小説の試み (岩波新書)
『「私」をつくる――近代小説の試み (岩波新書)』
安藤 宏
岩波書店
821円(税込)
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 夏目漱石、志賀直哉、太宰治、川端康成らをはじめとする文豪たちの小説、そして私たちが普段読んでいる小説の多くは、いずれも現代文、"言文一致体"で書かれたもの。日本近代小説は、明治期に普及した"言文一致体"によって、さまざまな試行錯誤を経ながら築き上げられてきたものです。

 では実際に、それまでの漢文訓読体、和文体、翻訳体などの文体の並走状態から離れ、小説家たちは言文一致体で小説を書いていくにあたり、どのような問題を抱え、工夫を凝らしてきたのでしょうか。

 言(話し言葉)と文(書き言葉)とを一致させようという試み、つまり話しているかのように書いていこうとする試みであった言文一致体が抱える問題。

 そのひとつとして、安藤宏さんによる『「私」をつくる 近代小説の試み』では、"人称"という概念に注目。なかでも"私"をめぐってどのような試行錯誤がなされてきたのか、小説作品を随時とりあげながら分析していきます。

 小説のなかで果たされる"私"の役割。たとえば、一人称の語り手"私"が、その小説の作者であることを自ら明かすケースがあるといいます。

「演奏のさなかに指揮者が指揮を中断し、観客に向かって、ここは特に大切なところなので心して聴いてほしい、などと解説を始めたら、聴き手は一体どう思うだろうか。
 こうした"ありえない事態"がしばしば起こりうるのが『小説』というジャンルの特性でもある」(本書より)

 作者が小説のなかでその内容に注釈し、読者に直接語りかけてくるということ。

 たとえば太宰治の『道化の華』には、「僕はこの小説を雰囲気のロマンスにしたかつたのである。はじめの数頁でぐるぐる渦を巻いた雰囲気をつくつて置いて、それを少しづつのどかに解きほぐして行きたいと祈つてゐたのであつた。不手際をかこちつつ、どうやらここまでは筆をすすめて来た。(中略)かう書きつつも僕は僕の文章を気にしてゐる」といった一節が。書いている自分までもが題材となっています。

 このように、日本の近代小説は「『小説を書く私について書く』葛藤を通し、さまざまな表現領域を切り開いてきた歴史でもあった」(本書より)と安藤さんは指摘します。

 小説のなかで"私"はどのように立ち現れているのか。本書にて解説されていく視点を持ったうえで、言文一致体で書かれた近代小説の数々を改めて読み返してみると、新たな発見があるかもしれません。

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