群衆は単純化された思想を好む
群衆化した人々はどのような思想に染まりやすいのでしょうか。ル・ボンは『群衆心理』の中で、フランス革命の源泉となった啓蒙思想を例として挙げています。ライターの武田砂鉄(たけだ・さてつ)さんが該当箇所を引きながら解説します。
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群衆化した人々は、どのような思想に染まりやすいのか。ル・ボンは、群衆が影響されやすく、受けいれやすい思想には、大きく二つあるといいます。
第一の部類には、そのときどきの影響を受けて発生する偶発的な、一時的な思想を入れよう。これは、例えば、ある個人、またはある主義に対する心酔(しんすい)のごときものである。もう一つの部類には、環境、遺伝、世論などによって非常に強固なものとなる根本的思想を入れよう。これは、かつての宗教思想、今日の民主主義社会思想のごときものである。
「一時的な思想」と「根本的思想」の差異を、ル・ボンは河の流れに喩(たと)えています。根本的思想は大河であり、一時的な思想は、その川面を乱すさざなみのようなものである、と。
はたして、このような簡略化した整理は妥当でしょうか。正直、疑問が残ります。一時的な思想でもなければ、根本的思想でもない、たまたま見聞きしたことが意識の底に留まっている場合もあるでしょう。当然、これらすべてが混じり合うこともあります。
ともあれ、ここでル・ボンがいいたいのは、どんな思想も、わかりやすく単純化されたものでなければ群衆には浸透しない、ということなのです。
思想は、極めて単純な形式をおびたのちでなければ、群衆に受けいれられないのであるから、思想が一般に流布(るふ)するようになるには、しばしば最も徹底的な変貌(へんぼう)を受けねばならないのである。やや高級な哲学思想や科学思想にあっては、それが群衆の水準にまで漸次(ぜんじ)くだって行くには、深刻な変化の必要であることが認められる。この変化は、特に、その群衆の属する種族如何によるのであるが、常に縮小化、単純化の傾向を持つ点では変りないのである。それゆえ、社会的観点からすれば、思想の等級、すなわち、思想における高下の別というようなものは、実際にはほとんど存在しない。ある思想が、群衆の水準に達して、群衆を動かすという事実だけで、その高級さ、偉大さが、ほとんどすべて失われてしまうのである。
群衆に受けいれられるには、自分で考えに考えて、なんとか理解するようなものではなく、咀嚼(そしゃく)しなくても吸収できるくらい単純な思想でなくてはならない。そのため、高級な哲学思想も科学思想も、群衆を動かすようになった時には、まったく別物になり果てているというわけです。その好例として、ル・ボンはフランス革命の源泉となった啓蒙思想を挙げ、次のように記しています。
フランス大革命を生むにいたった哲学思想が、民衆の精神に植えつけられるまでには長い期間を要した。それがいったん民衆の精神に固定されたときの不可抗的な力は、人の知るところである。一国民全体が、社会的平等の獲得や、抽象的な権利と理想的な自由との実現にむかって突進して、あらゆる王座をゆるがし、西欧の天地をはげしく動乱させた。
啓蒙思想の何たるかは理解できなくても、それが「王政打倒」を意味するということならば肌感覚でわかる。ある思想が形を変え、極端にシンプルな形として提示されると、群衆は一気に飛びつくわけです。その結果、フランス革命では群衆が途轍(とてつ)もない力を発揮しました。
■『NHK100分de名著 ル・ボン 群衆心理』より
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群衆化した人々は、どのような思想に染まりやすいのか。ル・ボンは、群衆が影響されやすく、受けいれやすい思想には、大きく二つあるといいます。
第一の部類には、そのときどきの影響を受けて発生する偶発的な、一時的な思想を入れよう。これは、例えば、ある個人、またはある主義に対する心酔(しんすい)のごときものである。もう一つの部類には、環境、遺伝、世論などによって非常に強固なものとなる根本的思想を入れよう。これは、かつての宗教思想、今日の民主主義社会思想のごときものである。
『群衆心理』 櫻井成夫訳 講談社刊 (以下同)
「一時的な思想」と「根本的思想」の差異を、ル・ボンは河の流れに喩(たと)えています。根本的思想は大河であり、一時的な思想は、その川面を乱すさざなみのようなものである、と。
はたして、このような簡略化した整理は妥当でしょうか。正直、疑問が残ります。一時的な思想でもなければ、根本的思想でもない、たまたま見聞きしたことが意識の底に留まっている場合もあるでしょう。当然、これらすべてが混じり合うこともあります。
ともあれ、ここでル・ボンがいいたいのは、どんな思想も、わかりやすく単純化されたものでなければ群衆には浸透しない、ということなのです。
思想は、極めて単純な形式をおびたのちでなければ、群衆に受けいれられないのであるから、思想が一般に流布(るふ)するようになるには、しばしば最も徹底的な変貌(へんぼう)を受けねばならないのである。やや高級な哲学思想や科学思想にあっては、それが群衆の水準にまで漸次(ぜんじ)くだって行くには、深刻な変化の必要であることが認められる。この変化は、特に、その群衆の属する種族如何によるのであるが、常に縮小化、単純化の傾向を持つ点では変りないのである。それゆえ、社会的観点からすれば、思想の等級、すなわち、思想における高下の別というようなものは、実際にはほとんど存在しない。ある思想が、群衆の水準に達して、群衆を動かすという事実だけで、その高級さ、偉大さが、ほとんどすべて失われてしまうのである。
群衆に受けいれられるには、自分で考えに考えて、なんとか理解するようなものではなく、咀嚼(そしゃく)しなくても吸収できるくらい単純な思想でなくてはならない。そのため、高級な哲学思想も科学思想も、群衆を動かすようになった時には、まったく別物になり果てているというわけです。その好例として、ル・ボンはフランス革命の源泉となった啓蒙思想を挙げ、次のように記しています。
フランス大革命を生むにいたった哲学思想が、民衆の精神に植えつけられるまでには長い期間を要した。それがいったん民衆の精神に固定されたときの不可抗的な力は、人の知るところである。一国民全体が、社会的平等の獲得や、抽象的な権利と理想的な自由との実現にむかって突進して、あらゆる王座をゆるがし、西欧の天地をはげしく動乱させた。
啓蒙思想の何たるかは理解できなくても、それが「王政打倒」を意味するということならば肌感覚でわかる。ある思想が形を変え、極端にシンプルな形として提示されると、群衆は一気に飛びつくわけです。その結果、フランス革命では群衆が途轍(とてつ)もない力を発揮しました。
■『NHK100分de名著 ル・ボン 群衆心理』より
- 『ル・ボン『群衆心理』 2021年9月 (NHK100分de名著)』
- 武田 砂鉄
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