戦場から帰還した女性たちを待っていた差別
第二次世界大戦中、ソ連は兵士として男性だけでなく女性をも動員しました。戦地から帰還した男性兵士は賞賛を浴びましたが、女性の場合はひどい差別を受けました。ロシア文学研究者の沼野恭子(ぬまの・きょうこ)さんが、差別を受けた女性たちの証言を紹介します。
* * *
戦争中、敵の捕虜になっていた人たちは「戦争犯罪人」と見なされ、強制収容所に送られました。しかし、戦場から帰還した後、苦労を強いられたのは、捕虜だった人たちだけではありません。従軍した女性たちもそうでした。ただし、女性を苦しめたのは、収容所ではなく、世間の差別的な反応でした。
ワレンチーナ・パーヴロヴナ・チュダーエワ 軍曹(高射砲指揮官)
男たちは戦争に勝ち、英雄になり、理想の花婿になった。でも女たちに向けられる眼は全く違っていた。私たちの勝利は取り上げられてしまったの。
当時のソ連社会には、共産主義の建前としての男女平等と、家父長主義的で良妻賢母を求める女性神話という二重の規範が存在していました。そのため、戦場で男性と同等か、それ以上に努力して戦っても、女性たちにはそれにふさわしい栄誉や称賛が与えられませんでした。それどころか、逆に「傷もの」だとか「あばずれ」だとか、ひどく差別的な言葉をぶつけられたのです。
クラヴヂア・S 狙撃兵
祖国でどんな迎え方をされたか? 涙なしでは語れません……四十年もたったけど、まだほほが熱くなるわ。男たちは黙っていたけど、女たちは?
女たちはこう言ったんです。「あんたたちが戦地で何をしていたか知ってるわ。若さで誘惑して、あたしたちの亭主と懇(ねんご)ろになってたんだろ。戦地のあばずれ、戦争の雌犬め……」ありとあらゆる侮辱を受けました……。ロシア語の汚い言葉は表現が豊富だから……
エカテリーナ・ニキーチチュナ・サンニコワ 軍曹(射撃兵)
私は共同住宅に住んでいたんですが、同じ住宅の女たちはみなご主人と一緒に住んでいて、私を侮辱しました。いじわるを言うんです。「で、戦地ではたくさんの男と寝たんでしょ? へええ!」共同の台所で、私はジャガイモを煮ている鍋に酢を入れられました。塩を入れられたり……そうやって笑っているんです。
私の司令官が復員してきました。私のところに来て、私たちは結婚しました。一年後、彼は他の女のところに行ってしまいました。私が働いていた工場の食堂の支配人のところへ。「彼女は香水の匂いがするんだ、君は軍靴と巻き布の臭いだからな」と。
それっきり、一人で暮らしてます。天涯孤独の身です。来てくれてありがとう……
(アレクシエーヴィチが汽車の中で出会った元兵士の男性)
私の妻は馬鹿な女じゃないが、戦争に行っていた女たちのことを悪く言っている。「花婿探しに行っていたんでしょう」「恋に血道をあげていたんでしょう」と。
この三つの証言を読んで、みなさんはお気付きでしょうか。従軍した女性たちが、同性である女性にも差別されていたということに。それは、どれほど心に堪(こた)えるものだったでしょう。中には、実の母親に家を追い出された、結婚相手の母親や姉に侮辱された、という証言もあります。多くの証言者が、肩身の狭い思いをしながら、その後の人生を生きなければなりませんでした。特に、都市部以上に因習的な価値観が残る農村では、本当に大変だったと思います。
戦争から帰った女性たちがこうした状況に置かれても、戦場に送り出した国家や、戦場でともに戦った男性たちが彼女たちを擁護することはありませんでした。戦場で銃を取り、活躍したことを認めることなく、放置したのです。
タマーラ・ステパノヴナ・ウムニャギナ 赤軍伍長(衛生指導員)
戦後はまた別の戦いがあった。それも恐ろしい戦いだった。男たちは私たちを置き去りにした。かばってくれなかった。戦地では違ってた。
見放され、差別された女性たちは、次第に「従軍経験は自分にとって不利益なもの」と考えるようになり、口を閉ざしてしまいます。多数の女性兵士がいたという事実、最前線で男性と伍して戦ったという事実は、アレクシエーヴィチが現れるまで40年にわたってほとんど取り上げられることがありませんでした。
ソ連には、捕虜や収容所などのタブーがあったと言いましたが、この女性兵士の問題も、紛れもないタブーだったのです。
■『NHK100分de名著 アレクシエーヴィチ 戦争は女の顔をしていない』より
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戦争中、敵の捕虜になっていた人たちは「戦争犯罪人」と見なされ、強制収容所に送られました。しかし、戦場から帰還した後、苦労を強いられたのは、捕虜だった人たちだけではありません。従軍した女性たちもそうでした。ただし、女性を苦しめたのは、収容所ではなく、世間の差別的な反応でした。
ワレンチーナ・パーヴロヴナ・チュダーエワ 軍曹(高射砲指揮官)
男たちは戦争に勝ち、英雄になり、理想の花婿になった。でも女たちに向けられる眼は全く違っていた。私たちの勝利は取り上げられてしまったの。
当時のソ連社会には、共産主義の建前としての男女平等と、家父長主義的で良妻賢母を求める女性神話という二重の規範が存在していました。そのため、戦場で男性と同等か、それ以上に努力して戦っても、女性たちにはそれにふさわしい栄誉や称賛が与えられませんでした。それどころか、逆に「傷もの」だとか「あばずれ」だとか、ひどく差別的な言葉をぶつけられたのです。
クラヴヂア・S 狙撃兵
祖国でどんな迎え方をされたか? 涙なしでは語れません……四十年もたったけど、まだほほが熱くなるわ。男たちは黙っていたけど、女たちは?
女たちはこう言ったんです。「あんたたちが戦地で何をしていたか知ってるわ。若さで誘惑して、あたしたちの亭主と懇(ねんご)ろになってたんだろ。戦地のあばずれ、戦争の雌犬め……」ありとあらゆる侮辱を受けました……。ロシア語の汚い言葉は表現が豊富だから……
エカテリーナ・ニキーチチュナ・サンニコワ 軍曹(射撃兵)
私は共同住宅に住んでいたんですが、同じ住宅の女たちはみなご主人と一緒に住んでいて、私を侮辱しました。いじわるを言うんです。「で、戦地ではたくさんの男と寝たんでしょ? へええ!」共同の台所で、私はジャガイモを煮ている鍋に酢を入れられました。塩を入れられたり……そうやって笑っているんです。
私の司令官が復員してきました。私のところに来て、私たちは結婚しました。一年後、彼は他の女のところに行ってしまいました。私が働いていた工場の食堂の支配人のところへ。「彼女は香水の匂いがするんだ、君は軍靴と巻き布の臭いだからな」と。
それっきり、一人で暮らしてます。天涯孤独の身です。来てくれてありがとう……
(アレクシエーヴィチが汽車の中で出会った元兵士の男性)
私の妻は馬鹿な女じゃないが、戦争に行っていた女たちのことを悪く言っている。「花婿探しに行っていたんでしょう」「恋に血道をあげていたんでしょう」と。
この三つの証言を読んで、みなさんはお気付きでしょうか。従軍した女性たちが、同性である女性にも差別されていたということに。それは、どれほど心に堪(こた)えるものだったでしょう。中には、実の母親に家を追い出された、結婚相手の母親や姉に侮辱された、という証言もあります。多くの証言者が、肩身の狭い思いをしながら、その後の人生を生きなければなりませんでした。特に、都市部以上に因習的な価値観が残る農村では、本当に大変だったと思います。
戦争から帰った女性たちがこうした状況に置かれても、戦場に送り出した国家や、戦場でともに戦った男性たちが彼女たちを擁護することはありませんでした。戦場で銃を取り、活躍したことを認めることなく、放置したのです。
タマーラ・ステパノヴナ・ウムニャギナ 赤軍伍長(衛生指導員)
戦後はまた別の戦いがあった。それも恐ろしい戦いだった。男たちは私たちを置き去りにした。かばってくれなかった。戦地では違ってた。
見放され、差別された女性たちは、次第に「従軍経験は自分にとって不利益なもの」と考えるようになり、口を閉ざしてしまいます。多数の女性兵士がいたという事実、最前線で男性と伍して戦ったという事実は、アレクシエーヴィチが現れるまで40年にわたってほとんど取り上げられることがありませんでした。
ソ連には、捕虜や収容所などのタブーがあったと言いましたが、この女性兵士の問題も、紛れもないタブーだったのです。
■『NHK100分de名著 アレクシエーヴィチ 戦争は女の顔をしていない』より
- 『アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』 2021年8月 (NHK100分de名著)』
- 沼野 恭子
- NHK出版
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