ディテールにこそ魂が宿る
第二次世界大戦中にソ連軍に従軍した女性たちの証言を集めた『戦争は女の顔をしていない』。取材したアレクシエーヴィチは、証言した人々を「小さな人間」「ちっぽけな人間」と表現しています。
わたしは理解した、大きな思想にはちっぽけな人間が必要なので、大きな人間はいらない。思想にとっては大きな人間というものは余計で、不便なのだ。手がかかりすぎる。わたしは逆にそういう人間を捜している。大きな内容を秘めたちっぽけな人たちを捜している。虐げられ、踏みつけにされ、侮辱された人たち──
ロシア文学研究者の沼野恭子(ぬまの・きょうこ)さんは、「『戦争は女の顔をしていない』は、「小さな人間」という「個」の声が響き合う、交響曲のような作品であり、「男の言葉」で語られてきた戦争を「女性の語り」によって解体した作品でもありました」と指摘します。
* * *
理想の社会主義社会を建設しようとした旧ソ連れは、イデオロギーに沿った歴史が、いわば「大文字の歴史」として残されました。それは、必然的に集団主義的であり、全体主義的社会に陥ってしまう歴史でもあります。
一方、女性の語りは、非論理的だとか、非合理的だとかいった言葉で不当におとしめられ、ステレオタイプ的に「生活密着型の単なるおしゃべり」「男性の言説に比べて下に位置する」とみなされてきた側面があります。しかし、アレクシエーヴィチはその女性の語りに光を当て、価値を見出し、「大文字の歴史」が取りこぼしてきたものをすくい上げていきます。
男の言葉による戦争と、女性の語り。その対比が鮮やかに表れている証言があります。アナスタシヤ・レオニードヴナ・ジャルデツカヤ(上等兵・衛生指導員)の証言です。
戦場で結婚したアナスタシヤは、白い包帯でウェディングドレスを作ったときのことを、こんなふうに細かく記憶しています。
一晩かかって包帯のガーゼで花嫁衣装を縫い上げたことを。包帯は仲間の女の子たちと一緒に一ヶ月前から少しずつ集めておいた宝物。それで本格的な花嫁衣装ができたの。写真が残っているわ。ドレスに軍用長靴。憶えているわ。パイロット帽の古いのを細工してベルトにしたの。すばらしいサッシュだったわ。
一方で、その結婚相手である夫は、アレクシエーヴィチの聞き取りに備えて、妻に事前に「男の言葉」の戦争を教えていました。
夫は「恋愛のことは一言も言うな、戦争のことを話すんだぞ」って言いつけて行ったのに。夫はきびしいの。地図を出して教え込んでいったわ、どこに何ていう戦線があったか二日がかりで教えてくれた……どこに味方の軍がいたとか……いま、メモを見るわね、彼に言われたことを書いたのよ……読むわね。あら、何を笑っているの? あなた、なんていい笑い方なの? あたしを歴史家にしようなんて無理よね。包帯で作ったドレスを着ている写真を見せるほうがあってるわ。
夫との「恋愛のことを話すのが好き」だという妻に、夫は二日もかけて「戦争のこと」を教え込み、妻はそのメモを読み上げようとしている。なんだか微笑ましくて、アレクシエーヴィチもつい笑ってしまったのでしょう。ここでは結局、「戦争のこと」は一言も出てきません。
女性の語りの価値を、より明確に言葉にしている証言者がいます。この本では数少ない男性の証言者、サウル・ゲンリホヴィチです。サウル自身も従軍経験があり(歩兵・軍曹)、妻のオリガ・ワシーリエヴナ(海軍一等兵)の証言に同席していました。
オリガは、「わが家にはふたつの戦争が同居してるのよ」という言葉でアレクシエーヴィチを自宅に迎え入れ、サウルも「私たちの戦争は二つあるんだ。それは間違いない」とその言葉を肯定します。
サウルは「ふたつの戦争」の違いをこんなふうに語ります。
妻があなたに話していたようなことが私にも何かあったが、しかし、私はそれを憶えていない。私の記憶に引っかからなかったんだ。そんなことはつまらないことに思えた。くだらないことだと。
私のはもっと具体的な戦争の知識だ。彼女のは気持ちだ。気持ちの方がいつだってこういうことがあったという知識よりもっと強烈だ。
恋やおしゃれ。記憶に引っかからなかった、つまらない、くだらないこと、気持ち。そうした小さなこと、ディテールをアレクシエーヴィチは掘り起こしていきます。ディテールにこそ魂が宿り、物語があります。それこそが文学なのです。
アレクシエーヴィチは、過去の出来事を、一人ひとりの個人の「生」という視点で書いています。かけがえのない一回限りの生は、唯一、大文字のイデオロギーに対峙し、それを解体していくことができるものです。男性原理、男の言葉に支配された大文字の戦争を、個としての女性の語りで解体したのが、『戦争は女の顔をしていない』という作品なのです。
■『NHK100分de名著 アレクシエーヴィチ 戦争は女の顔をしていない』より
わたしは理解した、大きな思想にはちっぽけな人間が必要なので、大きな人間はいらない。思想にとっては大きな人間というものは余計で、不便なのだ。手がかかりすぎる。わたしは逆にそういう人間を捜している。大きな内容を秘めたちっぽけな人たちを捜している。虐げられ、踏みつけにされ、侮辱された人たち──
ロシア文学研究者の沼野恭子(ぬまの・きょうこ)さんは、「『戦争は女の顔をしていない』は、「小さな人間」という「個」の声が響き合う、交響曲のような作品であり、「男の言葉」で語られてきた戦争を「女性の語り」によって解体した作品でもありました」と指摘します。
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理想の社会主義社会を建設しようとした旧ソ連れは、イデオロギーに沿った歴史が、いわば「大文字の歴史」として残されました。それは、必然的に集団主義的であり、全体主義的社会に陥ってしまう歴史でもあります。
一方、女性の語りは、非論理的だとか、非合理的だとかいった言葉で不当におとしめられ、ステレオタイプ的に「生活密着型の単なるおしゃべり」「男性の言説に比べて下に位置する」とみなされてきた側面があります。しかし、アレクシエーヴィチはその女性の語りに光を当て、価値を見出し、「大文字の歴史」が取りこぼしてきたものをすくい上げていきます。
男の言葉による戦争と、女性の語り。その対比が鮮やかに表れている証言があります。アナスタシヤ・レオニードヴナ・ジャルデツカヤ(上等兵・衛生指導員)の証言です。
戦場で結婚したアナスタシヤは、白い包帯でウェディングドレスを作ったときのことを、こんなふうに細かく記憶しています。
一晩かかって包帯のガーゼで花嫁衣装を縫い上げたことを。包帯は仲間の女の子たちと一緒に一ヶ月前から少しずつ集めておいた宝物。それで本格的な花嫁衣装ができたの。写真が残っているわ。ドレスに軍用長靴。憶えているわ。パイロット帽の古いのを細工してベルトにしたの。すばらしいサッシュだったわ。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著 三浦みどり訳
『戦争は女の顔をしていない』岩波書店刊(以下同)
一方で、その結婚相手である夫は、アレクシエーヴィチの聞き取りに備えて、妻に事前に「男の言葉」の戦争を教えていました。
夫は「恋愛のことは一言も言うな、戦争のことを話すんだぞ」って言いつけて行ったのに。夫はきびしいの。地図を出して教え込んでいったわ、どこに何ていう戦線があったか二日がかりで教えてくれた……どこに味方の軍がいたとか……いま、メモを見るわね、彼に言われたことを書いたのよ……読むわね。あら、何を笑っているの? あなた、なんていい笑い方なの? あたしを歴史家にしようなんて無理よね。包帯で作ったドレスを着ている写真を見せるほうがあってるわ。
夫との「恋愛のことを話すのが好き」だという妻に、夫は二日もかけて「戦争のこと」を教え込み、妻はそのメモを読み上げようとしている。なんだか微笑ましくて、アレクシエーヴィチもつい笑ってしまったのでしょう。ここでは結局、「戦争のこと」は一言も出てきません。
女性の語りの価値を、より明確に言葉にしている証言者がいます。この本では数少ない男性の証言者、サウル・ゲンリホヴィチです。サウル自身も従軍経験があり(歩兵・軍曹)、妻のオリガ・ワシーリエヴナ(海軍一等兵)の証言に同席していました。
オリガは、「わが家にはふたつの戦争が同居してるのよ」という言葉でアレクシエーヴィチを自宅に迎え入れ、サウルも「私たちの戦争は二つあるんだ。それは間違いない」とその言葉を肯定します。
サウルは「ふたつの戦争」の違いをこんなふうに語ります。
妻があなたに話していたようなことが私にも何かあったが、しかし、私はそれを憶えていない。私の記憶に引っかからなかったんだ。そんなことはつまらないことに思えた。くだらないことだと。
私のはもっと具体的な戦争の知識だ。彼女のは気持ちだ。気持ちの方がいつだってこういうことがあったという知識よりもっと強烈だ。
恋やおしゃれ。記憶に引っかからなかった、つまらない、くだらないこと、気持ち。そうした小さなこと、ディテールをアレクシエーヴィチは掘り起こしていきます。ディテールにこそ魂が宿り、物語があります。それこそが文学なのです。
アレクシエーヴィチは、過去の出来事を、一人ひとりの個人の「生」という視点で書いています。かけがえのない一回限りの生は、唯一、大文字のイデオロギーに対峙し、それを解体していくことができるものです。男性原理、男の言葉に支配された大文字の戦争を、個としての女性の語りで解体したのが、『戦争は女の顔をしていない』という作品なのです。
■『NHK100分de名著 アレクシエーヴィチ 戦争は女の顔をしていない』より
- 『アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』 2021年8月 (NHK100分de名著)』
- 沼野 恭子
- NHK出版
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