「体制順応主義者の地獄」に生きる白紙の主人公

作家のキングスレー・エイミスはレイ・ブラッドベリの『華氏451度』の世界を「体制順応主義者の地獄(conformist hell)」と評しました。「体制順応主義」とは、社会のはぐれ者にならないよう体制に逆らわずに生きていくあり方を言います。では、「体制順応主義者の地獄」とはどんな世界なのでしょうか。そこに暮らす人はどんな生を送っているのでしょうか。主人公モンターグとその妻のありようから、名古屋大学大学院情報学研究科教授の戸田山和久(とだやま・かずひさ)さんが読み解きます。

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舞台となっている21世紀中盤のアメリカは、これまで2回の核戦争を経験し、いまもどこかの国と戦争が始まりそうな危機的状況にあります。主人公のガイ・モンターグは30歳、職業は禁じられた本を燃やす「ファイアマン」です。勤続10年、彼はこの仕事に大きな誇りと喜びを感じています。妻の名はミルドレッド。二人は社会が提供するモデルに完璧に適応している夫婦です。
小説の第一部「炉と火竜」の冒頭を読んでみましょう。
火を燃やすのは愉しかった。
ものが火に食われ、黒ずんで、別のなにかに変わってゆくのを見るのは格別の快感だった。真(しん) 鍮(ちゆう) の筒さきを両のこぶしににぎりしめ、大いなる蛇が有毒のケロシンを世界に吐きかけるのをながめていると、血流は頭のなかで鳴りわたり、両手はたぐいまれな指揮者の両手となって、ありとあらゆる炎上と燃焼の交響曲をうたいあげ、歴史の燃えかすや焼け残りを引き倒す。シンボリックな451の数字が記されたヘルメットを鈍感な頭にかぶり、つぎの出来事を考えて、目をオレンジの炎でかがやかせながら昇火器にふれると、家はたちまち猛火につつまれ、夜空を赤と黄と黒に染めあげてゆく。
ケロシンとは灯油のこと。モンターグにとってその匂いは「香水みたいなもの」です。
彼が非常に職務熱心であることは名前にも表れています。モンターグとはドイツ語で月曜日のこと。週末が終わって勤務が始まる日です。また、モンターグという名は実在する製紙会社から採られているという説があり、ブラッドベリ自身もインタビューで、無意識のうちにその会社名から採ったかもしれないと答えています。これはおもしろい偶然ですね。なぜなら、物語の後半で彼を導く先生役としてフェーバーという人物が出てくるのですが、「フェーバー」はドイツの鉛筆メーカー、ファーバーカステル( FABER-CASTELL)の英語読み。モンターグは世の中の本当のありさまについて何も知らない、ある意味純粋無垢な人間です。つまり心は白い紙、タブラ・ラサ。タブラ・ラサとは、ラテン語で「何も刻まれていない石板」の意味で、人間の観念は生得的にではなく、経験によって獲得されるという主張をたとえたもの。そこにフェーバーが鉛筆でいろいろな知恵を書き込んでいく、というたとえになっています。この小説では、フェーバーを含む4人の教師が登場し、モンターグは彼らとの出会いを通して成長していきます。
■『NHK100分de名著 レイ・ブラッドベリ 華氏451度』より

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NHK 100分 de 名著 レイ・ブラッドベリ『華氏451度』 2021年6月 (NHK100分de名著)
『NHK 100分 de 名著 レイ・ブラッドベリ『華氏451度』 2021年6月 (NHK100分de名著)』
戸田山 和久
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