在原業平の女性観形成に影響を及ぼした「西の京の女」

プレイボーイの代名詞のようにいわれる在原業平。類いまれなる和歌の才能に恵まれた業平の歌は人の心をしみじみと打ち、数多くの女性と恋をします。そんな業平は16歳のときに重要な出会いを果たします。作家の高樹のぶ子さん(※)に当時の恋愛、結婚事情も合わせてお話をうかがいました。
※高樹さんの「高」の字は、正しくは「はしごだか」です。

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業平の恋模様を繙(ひもと)く前に、平安貴族の恋愛事情、結婚制度について説明しておきましょう。平安時代の貴族の女性は、家族以外には顔や姿を見せずに暮らしていました。そこで男性は、思い定めた女性に手紙や歌を送ることから恋をスタートさせます。何度か文(ふみ)をやりとりし、承諾の返事が来たら、男性は夜に女性の家を訪ねて共寝します。そして夜明け前に帰ります。
男性が三日続けて通ったら結婚成立。「三日夜(みかよ)の餅」と呼ばれる餅を食べ、夫婦となりました。結婚後も夫婦は一緒には暮らさず、夫が妻の家に通う「通い婚」のかたちが採られていました。夫は正式な妻のほかに恋人を持つことが制度的に許されていたからです。
夫婦の家計は、基本的には妻側の家によって賄(まかな)われていました。そのため、妻の実家が経済的に傾くと夫が通ってこなくなり、離婚に至るという例も少なくなかったようです。
そんな通い婚の時代です。『伊勢物語』には、さまざまな女のところに通う業平の様子が描かれます。
業平にとって最初の重要な女性だったと私が思うのは、第二段に登場する「西の京の女」です。初段で「初冠して」(元服して)とされた業平、次の第二段では16歳になっていると私は想像します。その業平が、年上の女性に愛の手ほどきを受ける場面です。全文を引用しましょう。
むかし、男ありけり。奈良の京(きやう)は離(はな)れ、この京は人の家まだ定まらざりける時に、西の京に女ありけり。その女、世人(よひと)にはまされりけり。その人、かたちよりは心なむまさりたりける。ひとりのみもあらざりけらし。それを、かのまめ男、うち物語(ものがた)らひて、帰り来て、いかが思ひけむ、時は弥生(やよひ)のついたち、雨そほ降(ふ)るにやりける、
 
起きもせず寝(ね)もせで夜(よる)を明かしては
   春のものとてながめ暮らしつ
いまだ遷都して間もなく、京の西には家々も少ない頃です。その一隅に築地(ついじ)をめぐらせた、あたりではいくらか整ったお屋敷がありました。住まっている女人が決して卑(いや)しくない身分であることが想像されます。その女は、姿かたちよりも心が優れた人。当然ながら他に男のある身です。女に好奇のこころを抱いた「かのまめ男」、すなわち業平がこの屋敷を訪ねます。語り合い、睦み合い、翌朝家に帰った業平は、そほ降る雨を眺めながら、女に歌を贈りました。
原文に「うち物語らひて」とありますが、二人はこの夜、何を語り合ったのでしょうか。業平はこの西の京の女に、自分の母親のことを話したのではないかと私は想像します。業平の母は、桓武帝の皇女、伊都内親王です。夫の阿保親王とのあいだにできた子は業平のみで、彼女は息子を溺愛していましたが、母性を素直に表現できる女性ではありませんでした。桓武帝の皇女であり、気位高く気丈でもあったため、夫とはあまり親密な関係ではなかったと思われます。十代の業平は、そんな母親に対する違和感のようなものを西の京の女に打ち明け、どう思うか聞いてみたのではないでしょうか。そんな想像がふくらみます。
年上で包容力がある西の京の女は、他に通っている男があるのに若い業平を受け入れ、おそらく寝所での男女のことも、いろいろと教えてくれたのでしょう。業平に、女についての手ほどきをしてくれた人がいたとすれば、この西の京の女だったと思います。
業平はここから成長する中で、さまざまな女性と恋をし、ときに裏切られ、傷ついたりもしていくのですが、決して「ひどい目に遭った」という負の経験としてとらえてはいません。モテ男の余裕、というわけではありません。業平はどれほどつらい思いをしても、女への恨みというものをあまり持ちませんでした。つまり、業平は最後まで女を信じることができた人物であり、それが可能だったのは、若くして西の京の女に出逢ったからだと私は考えます。
なお、この第二段の歌のように、逢瀬(おうせ)の翌朝に男が女に贈る歌を「後朝(きぬぎぬ)の歌」といいます。「昨夜は良かったね」「また逢いたいね」という気持ちを込めて詠むもので、当時の大切な恋愛マナーの一つでした。一つの衣(きぬ)の中で過ごしても、別れればその衣が二つになるので衣衣(きぬぎぬ)なのです。
■『NHK100分de名著 伊勢物語』より

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