『ピノッキオ』ディズニーと原作の大いなる違い

ジミニー・クリケットの歌う「星に願いを」 WHEN YOU WISH UPON A STAR のメロディーとともに、人びとの記憶に刻まれている愛らしいチロリアンハットの人形─これが世界でもっとも流布した「ピノッキオ」のイメージであることには、誰も異を唱えないだろう。
それは、1940年の公開から80年を経た今日に至っても、88分のウォルト・ディズニー製作によるアニメ映画が、今なお、子どもたちに手渡されつづけているからだ。
これほど浸透したポピュラーな映画『ピノキオ』は、原作の物語『ピノッキオの冒険』といったいどこがどんなふうに異なるのか、そして、ふたりの人形=少年が生きる世界はどれほど隔たっているのか、ここで確かめておくことにしよう。
ディズニー版映画は、そもそも冒頭から原作とは大きく異なっている。
主人公ピノキオは、すでに人形として出来上がっていて、ジェッペットの家の簞笥の上に腰掛けている。そのあやつり人形に命を吹き込むために、夜中に星の女神が降りてきて、ジェッペットの願いを叶えてやる。原作では家具ひとつない極貧の暮らしを送っているジェッペットだが、映画では、壁には時計が掛けてある何とも居心地よさそうな部屋が描かれている。
原作の物言うコオロギは、ディズニー版ではジミニー・クリケットと名付けられ、山高帽にフロックコートという出立ちで、映画の冒頭から最後まで登場する。そして主人公ピノキオの後見役もしくは指南役として、また物語全体の狂言回しとしての役割を担う。原作では、ジェッペットの家に百年以上前から棲みついている住人として、彫り上げられたばかりのピノッキオの前に姿を現し、途端にピノッキオの手で抹殺される。ところが主人公による「コオロギ殺し」が省略された結果として、ディズニー版では、原作に登場する小動物たち(ハト、警察犬アリドーロ、ロバ、オウムなど)がすべて省略されている。節目節目に姿を現しては、ピノッキオに人の世の道理を説き忠告をあたえる存在が消え去っている。
そして原作との最大の違いは、ピノッキオみずからが選択した経験する冒険が、ことごとく省略されていることだ。大きなカシの木に吊るされて命を落とすこともなければ、金貨のなる木に釣られて奇跡の原っぱで痛い目に遭うこともない。ロバになってサーカスで演じる惨めな姿を仙女に見られて悲しむことも、学校や働きバチの村で送る日常の発見も、映画には描かれない。
映画では、ピノッキオが登校途中に誘惑に負けて人形劇を観に行ったのではなく、キツネとネコによって言いくるめられ、人形劇団に売り飛ばされる。おもちゃの国に誘い出したのも、この悪漢コンビという設定だ。つまりピノッキオの主体的意志による選択の結果として生じる過ちが、映画からはきれいに消されている。結果として、ディズニー版『ピノキオ』は、勧善懲悪の物語へと転換されることになったとも言えるだろう。原作では、見かけこそいかめしいが心優しく憎めない火喰い親方も、映画では、ピノッキオを鳥籠に閉じ込め、興行の目玉にしようと目論む悪人そのものとして描かれている。ジェッペットをのみ込む大クジラも悪者。それが原作では、自分の腹の中からジェッペットとピノッキオが逃げ出したことさえまったく気づかない呑気な大ザメである。
そして映画では三回登場する仙女が、原作では、ピノッキオの変化と成長をつねに見守り、みずからも少女から母親へと変わっていく存在として描かれていることを思い出そう。
つまりディズニーの「ピノキオ」はコッローディの原作とはまったくの別世界に生きている。みずから困難に立ち向かうこともなければ悩むこともない。外界や他者からもたらされる偶然の働きかけに応じて「冒険」をつづけているだけなのだ。そして、その「単純なハッピーエンド」ゆえに、世界中から今もなお愛されつづけている。
さて、わたしたちにとって、どちらの「ピノッキオ」が魅力的に映るのか─その答えを得るためにも、是非『ピノッキオの冒険』を読んでほしい。
■『NHK100分de名著 ピノッキオの冒険』より

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コッローディ『ピノッキオの冒険』 2020年4月 (NHK100分de名著)
『コッローディ『ピノッキオの冒険』 2020年4月 (NHK100分de名著)』
和田 忠彦
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