大江健三郎作品は世界文学への扉
四国の森の谷間で敬愛されてきた「オーバー」の魂を受け継ぎ、救い主となった隆ことギー兄さん。手かざしによる治癒能力で地域の指導者となったギー兄さんのもとには彼を慕う人々が集い、やがて教会が設立されます。その教会の「しるし」となったのは、物語の語り手であるサッチャンが読んでいたアイルランドの詩人イェーツの詩に出てくる暗喩(メタファー)を図像化したものでした。「片側は色濃い緑で、片側は燃えあがっている」不思議な一本の木、「燃えあがる緑の木」です。
このように、大江健三郎の作品には、他の文学作品が数多く含みこまれています。作家で早稲田大学教授の小野正嗣(おの・まさつぐ)さんは、これほど世界の文学を意識的に自分の作品に招き入れてきた作家はいないと語ります。
* * *
大江文学の特徴は、つねに他の文学作品や芸術作品との関係において小説が書かれていることです。別の言い方をすれば、大江健三郎の小説には、他の文学作品という対話者がいて初めて成り立つようなところがあるのです。対話するためには、相手の言葉が必要ですから、どうしてもそうした作品の一節や言葉が、作中に引用されることになります。
どの作品においても主要な対話相手がいます。『燃えあがる緑の木』では、アイルランドの詩人イェーツです。『懐かしい年への手紙』では、イタリアの詩人ダンテです。マルカム・ラウリー、ウィリアム・ブレイク、エドガー・アラン・ポー、T・S・エリオット……。大江作品をパラパラとめくれば、大江健三郎がそのとき、どんな作家・作品を読んでいるのか、それらの作家・作品の言葉をどれほど切実に必要としているかが伝わってきます。
しかも作品の対話の相手となるのは、ひとりの詩人、ひとつの作品だけではありません。大江健三郎にとって大切な文学作品がそのつど作品のなかに招き入れられます。『燃えあがる緑の木』を見てください。大江健三郎は世界文学の宝庫を収めた書棚に手を伸ばしています。イェーツ、ダンテ、ドストエフスキー、アウグスチヌス、シモーヌ・ヴェイユ……。文学だけではありません。ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』も『燃えあがる緑の木』では大切な役割を果たすことがわかるでしょう。大江作品には、その意味でコラージュ的な手法が用いられています。随所に他者の作品の断片が織りなされているからです。
大江健三郎の小説に登場するのは、他者の作品だけではありません。大江健三郎の小説を読むとはまた、その小説と大江がそれまでに書いてきた小説とのつながりに触れることであり、過去の登場人物たちに出会うことでもあります。なるほど『燃えあがる緑の木』は、『懐かしい年への手紙』の続編と位置づけられますから、両作品に共通の人物が登場するのは当然でしょう。しかしそれ以外でも、たとえばザッカリー・K・高安という人物は、『「雨レイン・ツリーの木」を聴く女たち』に出ていた高安カッチャンという人物の息子であると想定されます。そして言うまでもありませんが、オーバーがギー兄さんに語り、作中で断片的に何度も言及される森の谷間の土地の神話と歴史は、『万延元年のフットボール』から『同時代ゲーム』、『M/Tと森のフシギの物語』などを通じて、精緻に練り上げられてきたものです。
さらに『燃えあがる緑の木』では、四国の森のなかの故郷に隠遁した総領事が、読書とともに取り組むのが、K伯父さんが放棄した小説『治療塔の子ら』──三部作の構想のもとに執筆されたSF小説の『治療塔』と『治療塔惑星』の続編──の草稿を完成させることなのです。『燃えあがる緑の木』のなかに、K伯父さんが放棄したものとして引用される文章は、じっさいに大江が執筆していた草稿であると考えられます。『懐かしい年への手紙』のような刊行された作品からばかりではなく、おそらく放棄された草稿からも引用がなされているのです。
他者の作品だけでなく自己の作品からも次々と引用がなされ、作品が織りなされていきます。だから大江健三郎にとって小説を書くとは、そのつど彼自身にとっての「福音書」を作ることなのだと言いたくなってくるほどです。
読者のなかには、ひとつの作品にこんなに他の作品が含みこまれ、言及されていることに戸惑いを覚える人もいるかもしれません。たとえば、『燃えあがる緑の木』を理解しようと思ったら、そこに引用されたり語られたりしている本を片っ端から読んだほうがいいのだろうか……と生真面目に考える人もいるかもしれません。
しかしそんな必要はまったくありません。大江健三郎にとっては、小説を書くために、自他の作品との対話が必要だったというそれだけを知っていればよいのです。小説を読むことは、人との出会いに似ています。ある人に出会い、親交を結んだり、恋に落ちたりします。そのとき、その相手のすべてを知ることは不可能です。僕たちと出会うまでに、その人が生きるなかで積み重ねてきた経験のすべてを知りたいなどと思わないはずです(恋人がどんな人と以前付き合っていたのかは気になったりするかもしれませんが……)。知らなくても、何の問題もありません。いまそばにいるこの人、目の前にあるこの小説との関係を、これから僕たちは豊かにしていけばよいだけなのです。
大江健三郎作品は、その点で実は読者に非常にフレンドリーなのです。大江の過去の作品を読んでいなくても、引用されている世界文学の諸作品を読んでいなくても、小説そのものを理解することには何の差し障りもないからです。しかも、なかには大江が言及している作品を読んでみようかな、という人もいるでしょうから、世界文学への扉が到るところに作り込まれていると言ってもよいでしょう。どんな作家でも、自分が愛する他の作品があるものでしょうし、その作品へのオマージュをさりげなく書き入れたり、意識しないうちにその影響が書くものに忍びこんでいたりするものです。しかし日本の作家で、ここまで世界の文学のさまざまな作品を、意識的に招き入れ、それらとともに書いてきた作家はいないのではないでしょうか。
■『NHK100分de名著 大江健三郎 燃えあがる緑の木』より
このように、大江健三郎の作品には、他の文学作品が数多く含みこまれています。作家で早稲田大学教授の小野正嗣(おの・まさつぐ)さんは、これほど世界の文学を意識的に自分の作品に招き入れてきた作家はいないと語ります。
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大江文学の特徴は、つねに他の文学作品や芸術作品との関係において小説が書かれていることです。別の言い方をすれば、大江健三郎の小説には、他の文学作品という対話者がいて初めて成り立つようなところがあるのです。対話するためには、相手の言葉が必要ですから、どうしてもそうした作品の一節や言葉が、作中に引用されることになります。
どの作品においても主要な対話相手がいます。『燃えあがる緑の木』では、アイルランドの詩人イェーツです。『懐かしい年への手紙』では、イタリアの詩人ダンテです。マルカム・ラウリー、ウィリアム・ブレイク、エドガー・アラン・ポー、T・S・エリオット……。大江作品をパラパラとめくれば、大江健三郎がそのとき、どんな作家・作品を読んでいるのか、それらの作家・作品の言葉をどれほど切実に必要としているかが伝わってきます。
しかも作品の対話の相手となるのは、ひとりの詩人、ひとつの作品だけではありません。大江健三郎にとって大切な文学作品がそのつど作品のなかに招き入れられます。『燃えあがる緑の木』を見てください。大江健三郎は世界文学の宝庫を収めた書棚に手を伸ばしています。イェーツ、ダンテ、ドストエフスキー、アウグスチヌス、シモーヌ・ヴェイユ……。文学だけではありません。ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』も『燃えあがる緑の木』では大切な役割を果たすことがわかるでしょう。大江作品には、その意味でコラージュ的な手法が用いられています。随所に他者の作品の断片が織りなされているからです。
大江健三郎の小説に登場するのは、他者の作品だけではありません。大江健三郎の小説を読むとはまた、その小説と大江がそれまでに書いてきた小説とのつながりに触れることであり、過去の登場人物たちに出会うことでもあります。なるほど『燃えあがる緑の木』は、『懐かしい年への手紙』の続編と位置づけられますから、両作品に共通の人物が登場するのは当然でしょう。しかしそれ以外でも、たとえばザッカリー・K・高安という人物は、『「雨レイン・ツリーの木」を聴く女たち』に出ていた高安カッチャンという人物の息子であると想定されます。そして言うまでもありませんが、オーバーがギー兄さんに語り、作中で断片的に何度も言及される森の谷間の土地の神話と歴史は、『万延元年のフットボール』から『同時代ゲーム』、『M/Tと森のフシギの物語』などを通じて、精緻に練り上げられてきたものです。
さらに『燃えあがる緑の木』では、四国の森のなかの故郷に隠遁した総領事が、読書とともに取り組むのが、K伯父さんが放棄した小説『治療塔の子ら』──三部作の構想のもとに執筆されたSF小説の『治療塔』と『治療塔惑星』の続編──の草稿を完成させることなのです。『燃えあがる緑の木』のなかに、K伯父さんが放棄したものとして引用される文章は、じっさいに大江が執筆していた草稿であると考えられます。『懐かしい年への手紙』のような刊行された作品からばかりではなく、おそらく放棄された草稿からも引用がなされているのです。
他者の作品だけでなく自己の作品からも次々と引用がなされ、作品が織りなされていきます。だから大江健三郎にとって小説を書くとは、そのつど彼自身にとっての「福音書」を作ることなのだと言いたくなってくるほどです。
読者のなかには、ひとつの作品にこんなに他の作品が含みこまれ、言及されていることに戸惑いを覚える人もいるかもしれません。たとえば、『燃えあがる緑の木』を理解しようと思ったら、そこに引用されたり語られたりしている本を片っ端から読んだほうがいいのだろうか……と生真面目に考える人もいるかもしれません。
しかしそんな必要はまったくありません。大江健三郎にとっては、小説を書くために、自他の作品との対話が必要だったというそれだけを知っていればよいのです。小説を読むことは、人との出会いに似ています。ある人に出会い、親交を結んだり、恋に落ちたりします。そのとき、その相手のすべてを知ることは不可能です。僕たちと出会うまでに、その人が生きるなかで積み重ねてきた経験のすべてを知りたいなどと思わないはずです(恋人がどんな人と以前付き合っていたのかは気になったりするかもしれませんが……)。知らなくても、何の問題もありません。いまそばにいるこの人、目の前にあるこの小説との関係を、これから僕たちは豊かにしていけばよいだけなのです。
大江健三郎作品は、その点で実は読者に非常にフレンドリーなのです。大江の過去の作品を読んでいなくても、引用されている世界文学の諸作品を読んでいなくても、小説そのものを理解することには何の差し障りもないからです。しかも、なかには大江が言及している作品を読んでみようかな、という人もいるでしょうから、世界文学への扉が到るところに作り込まれていると言ってもよいでしょう。どんな作家でも、自分が愛する他の作品があるものでしょうし、その作品へのオマージュをさりげなく書き入れたり、意識しないうちにその影響が書くものに忍びこんでいたりするものです。しかし日本の作家で、ここまで世界の文学のさまざまな作品を、意識的に招き入れ、それらとともに書いてきた作家はいないのではないでしょうか。
■『NHK100分de名著 大江健三郎 燃えあがる緑の木』より
- 『大江健三郎 『燃えあがる緑の木』 2019年9月 (NHK100分de名著)』
- 小野 正嗣
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