平成生まれ初の棋士・豊島将之王位・棋聖

撮影:河井邦彦
平成の将棋界はどのように動いてきたのか。平成の将棋界をどうやって戦ってきたのか。勝負の記憶は棋士の数だけ刻み込まれてきた。連載「平成の勝負師たち」、2019年6月号には豊島将之王位・棋聖が登場する。

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とても同じ奨励会三段の将棋とは思えなかった。別世界の強さだった。自分の対局相手は忘れていたが、隣で指していた豊島の将棋はハッキリ覚えている。
13年前の三段リーグ最終日、1局目。三段リーグでは東西の三段が半年間で18回戦を指し、上位の2名が四段になることができる。恒例として最後の2局は、東京の将棋会館で一斉に行われるのだ。
豊島は自力2番手、相手の三段は4番手という直接対決だった。相矢倉となり、当時の最新形から豊島が猛攻を仕掛けた。相手の強靱(きょうじん)な受けに豊島が鋭い攻めを繰り出す。何度も横を向いてしまう応酬だったが、豊島はわずかに届かなかった。勝利した相手……佐藤天彦名人は午後からの最終局にも勝って四段昇段を決めた。

■平成生まれ初の棋士に

昭和から新しい時代に変わって間もない平成2年、豊島は愛知県一宮市で生まれた。将棋との出会いは4歳のとき。NHKの『対決』という番組で将棋が特集されていた。当時は羽生善治NHK杯が七冠完全制覇に挑戦しており、羽生世代のドキュメンタリーだった。
「まだ子供でしたが、公式戦の対局場面では、終盤戦の秒読みからプロの戦いの緊張感が伝わってきました」
5歳で大阪に転居すると、関西将棋会館の道場に通うようになった。指導棋士の土井春左右七段の稽古もあって小学1年生でアマ四段、9歳で道場の最高段位である六段まで昇り、小学3年生の夏、関西奨励会に入会した。
奨励会の入会年齢は小学生高学年から中学生がほとんどだ。先輩の奨励会員になると高校生から20歳を超えた成人もいる。豊島からすれば大人の集まりに子供がひとりで入っていくようなものである。
「同期の人たちは自分より4、5歳上でしたが、仲よくしてもらい、楽しくやれていました。もう少し緊張感を持ってもよかったくらいです(笑)」
順調に昇級と昇段を重ねると中学生のうちに三段リーグに入った。1期目は10勝8敗とまずまずの成績だったが、2期目は昇段争いどころか、6勝12 敗と大きく負け越してしまったのだ。
「基本的に実力が足りていませんでした。序盤の知識がなく、いつも作戦負けからのスタートでしたね」
逆にライバルの糸谷哲郎八段は、敗れはしたが最終戦に勝てば昇段という一番を指していた。翌期は糸谷八段が四段に昇段し、稲葉陽八段が昇段争いを引っ張り続けた。いまもトップでしのぎを削る2人の存在は豊島の大きな刺激となる。
「糸谷さんは当時から逆転力がすごかった。稲葉さんは切れ味が鋭い将棋で、序盤に力を入れるようになって成績を上げた。自分は勝っている2人のよいところを参考にしていました」
冒頭の三段リーグは4期目のことだった。佐藤名人に敗れて昇段を逃したが、内心は整理がついていたと言う。
「佐藤さんとの将棋はわりとよい感じで攻めていましたが、持ち時間の使い方も含め相手が上だったと思います。昇段争いに参加したのは初めてでした。うまくいっていると感じていましたし、強くなっているという手応えもありました」
そして翌期の三段リーグ、堂々の1位で四段昇段を果たした。棋界初となる、平成生まれのプロ棋士の誕生だった。
「タイトルを獲れる棋士に……」そんな希望を持って四段になった豊島。毎年高勝率を挙げてステップアップしていく。しかしタイトル戦では羽生NHK杯と久保利明九段に2度ずつ跳(は)ね返されてきた。昨年、初の栄冠となる棋聖を羽生から奪取したのはプロ棋士になってから11年、5度目のタイトル戦でのことだった。決して順調な道のりとは言えなかった。
※後半はテキストに掲載しています。
※肩書はテキスト掲載当時のものです。
文:池田将之
■『NHK将棋講座』2019年6月号より

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