ハイジのおじいさんの暗い過去

画/パウル・ハイ 出典/J・シュピーリ作、矢川澄子訳 『ハイジ』 福音館文庫
『アルプスの少女ハイジ』で、ある日突然ハイジと暮らすことになるおじいさんには、アニメでは触れられなかった過去がありました。早稲田大学教授・ドイツ文学者の松永美穂(まつなが・みほ)さんが紹介します。

* * *

「アルムのおじさんに預けるですって? あんた、頭がおかしくなったんじゃないの、デーテ!(略)あんたをたちまち追い返すわよ!」とバルベルは心配しますが、デーテは「そんなこと、あの人にはできないわよ。この子のおじいちゃんなんだから」と平然としています。
バルベルは、「山の上であの老人がどうやって暮らしているか、誰も知らないのよ! あの人は、誰とも関わりをもとうとしない。もう長年、教会には足を踏み入れないし。1年に一度、太い杖を持ってあの人が下に降りてくると、みんなが避けるし、怖がらずにはいられないのよ」と言いながら、ハイジのおじいさんだという、人を寄せつけない狷介孤高(けんかいここう)な老人のことを、デーテからなんとか詳しく聞き出そうとします。
若いデーテがチャンスを求めて国外に出て行こうとしている一方で、アルムで一人暮らしをするおじいさんは、対照的に人生の敗残者のようです。
デーテがもったいぶってバルベルに話すところでは、かつて立派な農園の長男として生まれたおじいさんは、若いころに悪い仲間と付き合って、遊びやお酒に財産を使い果たしてしまった。両親は心痛のあまり相次いで死んでしまい、行方をくらました彼は、傭兵(ようへい)としてどうやらナポリで軍隊に入ったらしい。それから十数年が経ち、突然村に帰ってきたときには、だいぶ大きくなった息子を連れていました。噂によれば、喧嘩で人を殴り殺して、ナポリから逃げてきたのだといいます。これはあくまでも噂とされていますから、真偽のほどは不明ですが、おじいさんに人殺しの過去があるかもしれないというのは、衝撃的なエピソードではないでしょうか。
おじいさんは妻を早くに亡くし、息子のトビアスは大工になりました。デーテの母親の祖母と、おじいさんの祖母とがいとこだったので、彼らは親戚同士でした。立派な大工になったトビアスは、デーテの姉のアーデルハイトと相思相愛で結婚、ハイジを授かります。ところが結婚の2年後、家の建築現場での事故で、トビアスは死んでしまいました。そのショックで妻のアーデルハイトもひどい熱を出し、2、3週間後には後を追うように死んでしまいます。残された一人娘のハイジは孤児になり、叔母のデーテとその母親に引き取られます。
この不幸なできごとは、おじいさんが神様を信じずに生きてきたせいだと、みんなが噂しました。それを聞いたおじいさんはますます頑固で偏屈になり、誰とも話をしなくなって、村の人たちもおじいさんを避けるようになったといいます。それからアルムの山小屋に一人でこもったおじいさんは、「神様とも人間とも仲たがいしたまま」暮らしているというのです。近隣との関係も損なわれて共同体から爪はじきにされている、このおじいさんの共同体への復帰と回心の過程も、物語のドラマチックな一つの軸になります。
冒頭では、おじいさんに関するネガティブな情報と粗暴なイメージばかりが列挙されています。しかし、あとで実際におじいさんが登場すると、一人で生きる知恵もあり、技術もあり、非常に自立した賢い人で、ハイジとの交流によって実は優しい面もあることが読者にもわかり、印象が変わっていく仕組みになっているのです。
■『NHK100分de名著 シュピリ アルプスの少女ハイジ』より

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シュピリ『アルプスの少女ハイジ』  2019年6月 (NHK100分de名著)
『シュピリ『アルプスの少女ハイジ』 2019年6月 (NHK100分de名著)』
松永 美穂
NHK出版
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