マルクス・アウレリウスが『自省録』を着筆するに至るまで

パークス・ローマーナー(ローマの平和)といわれた「五賢帝時代」最後の皇帝、マルクス・アウレリウス。39歳で帝位を継承したアウレリウスは、戦地のテント内や宮廷の自室で折節の思索や自戒の言葉を書き留めていました。この手記が後世にまとめられ、『自省録』として刊行されました。ひたすら自分の内面を見つめ、己を律する手記を、アウレリウスはどのような経緯で書くことになったのでしょうか。哲学者の岸見一郎(きしみ・いちろう)さんが、その半生を紐解きます。

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『自省録』は哲学書です。哲学という言葉を聞くだけで怯(ひる)む人がいるかもしれませんが、哲学(philosophia)は本来的には学問ではなく「知を愛する」という意味です。誰もが幸福を求める──これがギリシア、ローマの基本前提であり、哲学の出発点です。幸福とは何か、幸福であるためにはどうすればいいか、この人生をどう生きればいいのかを知ろうとすることが哲学です。もとより、これらの問いへの答えは簡単に出ませんが、真摯に生きようとすれば問わないわけにはいきません。
我々を守ることができるものは何か。それはただ一つ、哲学だけだ。

(二・一七)



皇帝としての多忙な日々を生きるアウレリウスを守ったのは哲学でした。『自省録』は、思弁に終始することなく、学んだことを実践することを自分に課した、実践と思索の足跡を自分のために書き留めた思索ノートです。そこに語られている生きる知恵が二千年近くも時空を超えて読み継がれてきたのです。
アウレリウスが遺したこの『自省録』には一体何が書かれているのか。その言葉の森へ分け入る前に、まずは彼がどんな人生を歩み、いかなる状況で『自省録』が書かれたのかを見ましょう。
マルクス・アウレリウスは121年、ローマの名門家庭に生まれました。賢帝による治世が続き、ローマ帝国が平和と繁栄を謳歌していた時代です。幼名はマルクス・アンニウス・ウェルスといいましたが、後に見るように皇帝家の養子になった頃から、アウレリウスを名乗るようになりました。富裕な家に育ち、教養も豊かであった母親からは、敬虔と慈しみの心、惜しみなく与えることや質素な生活スタイル、悪いことをしないだけでなく考えてもいけないということを教わったと振り返っています(一・三)。
父のマルクス・アンニウス・ウェルスは法務官の職にありましたが、アウレリウスが3歳の時に亡くなっています。おぼろげな記憶、あるいは周囲から伝え聞いた話などから、「謙虚と雄々しさ」(一・二)を学んだと記しています。
父と死別したアウレリウスは、当時の慣例に従い祖父アンニウス・ウェルスの養子になります。祖父は当時の皇帝ハドリアヌスの側近でした。皇帝は幼いアウレリウスをかわいがり、この頃からゆくゆくは皇帝に、と目していたようです。
元元老院議員で教育熱心だった曾祖父ルキウス・カティリウス・セウェルスは、七歳になったアウレリウスを一般の学校には通わせず、一流の学者たちを家庭教師として自邸で学ばせました。ギリシア語、ラテン語、音楽、数学、法律、修辞学──。なかでも最もアウレリウスを惹きつけたのが哲学でした。傾倒していた哲学の先人に倣い、ギリシア風の簡素な服を身につけ、夜はじかに地面に寝たりもしたようですが、彼の健康を案じた母に懇願されて渋々やめたというエピソードが残っています。
アウレリウスの人生が大きく動いたのは、成人式を迎えた14歳の時です。次期皇帝に指名されていたルキウス・ケイオニウス・コンモドゥスの娘であるケイオニアと婚約しました。しかし、彼が急死すると、新たに後継者として指名されたアントニヌス・ピウスの養子となります。ハドリアヌスが亡くなると、帝位を継いだアントニヌス・ピウスはアウレリウスにケイオニアとの婚約を解消させます。そして自分の娘であるファウスティナと婚約させ、アウレリウスを次期皇帝に指名します。この時、アウレリウスはまだ18歳でした。しかし彼は喜ぶどころか、むしろ恐怖を感じたと伝えられています。哲学して生きる道が断たれることに加え、宮廷内の悪事・放埓(ほうらつ)を見聞きしていた彼は、自分の前に敷かれたレールの先にどんな日々が待ち受けているのか、容易に想像できたのでしょう。
ピウス帝の死去を受け、アウレリウスは39歳で帝位を継承します。即位に際して彼は、同じくピウスの養子で九歳年下のルキウス・ウェルスを共同統治帝としました。哲学者として生きることを切望していたのであれば、ここでルキウスに帝位を譲るという選択もあったかもしれません。それをしなかったのは、ハドリアヌスとピウス、二代にわたる賢帝の意向に背くことになるのに加え、彼が傾倒していた哲学が「運命を甘受する」よう説いていたこともあったのでしょう。
彼の苦悩は、その後さらに深まることになります。ルキウスとの共同統治を待ち受けていたのは、度重なる天災と四方にある辺境からの外敵の侵攻でした。彼らは軍を率いて遠征しますが、一時ローマに帰還する途中で、ルキウスが急死。
『自省録』が書き始められたのは、アウレリウスが一人で帝国の舵取りをすることになった、この頃からだといわれています。
※続きはテキストをご覧ください。
※文中で引用する『自省録』の言葉は岸見一郎さんによる訳です。
■『NHK100分de名著 マルクス・アウレリウス 自省録』より

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