「右か左か」 二分法を嫌ったオルテガ

1930年、47歳のときにオルテガは『大衆の反逆』を出版しました。当時はファシズムがヨーロッパに台頭し、オルテガの生まれたスペインでも左右の対立から政治的混乱が拡大した時代でした。オルテガは「リベラルな共和政」を唱え、政治結社「共和国奉仕集団」を結成、政治の世界に身を投じます。しかし、その先に待ち受けていたのは、“大衆の反逆”でした。評論家で東京工業大学教授の中島岳志(なかじま・たけし)さんが解説します。

* * *

オルテガは、右か左かという二分法を嫌いました。「これが正しい」と、一方的に自分の信ずるイデオロギーを掲げて拳を上げるような人間が、嫌で仕方がなかったのだと思います。そうではなく、右と左の間に立ち、引き裂かれながらでも合意形成をしていくことが、彼の思い描いた「リベラルな共和政」でした。しかし、スペインでそれは不可能と考えた彼は、32年8月に代議士を辞職してしまいます。
その後、36年2月の総選挙で左翼勢力が圧勝して人民戦線内閣が成立すると、左右の対立は決定的なものになっていきます。左派と右派の両方を批判する言論を発表し続けていたオルテガは、双方から激しいバッシングを受けることになりました。
そして同年7月には、フランコ将軍ら右翼的な軍首脳部の指示を受けた正規軍が各地の主要都市で軍事反乱を起こし、これが導火線となって、スペインを二分しての内戦が開始されます。この反乱軍に肩入れしたナチスドイツが、スペイン北部、バスク地方のゲルニカという街を無差別爆撃するのですが、これをモチーフに生まれた絵画、ピカソの『ゲルニカ』はご存じの方も多いと思います。

■「捨てたものではないはずだ」という信頼

オルテガは当初、左右の対立を解消し、政治的混乱を回収してくれるのではないかという思いから反乱軍に一抹の期待を抱き、その勝利を望んでいたようです。しかし、「こんな革命のようなものがうまくいくわけはない」と、反乱軍に対してもすぐに幻滅する。そして、内戦の激化とともに強まる自由主義への弾圧や、言論の自由の阻害に対して、真っ向から立ち向かうのです。
国立のマドリード大学の教員だった彼は、人民戦線政府を「支持する」という文書に署名するよう強く求められましたが、これを拒否しました。それによって「反革命分子」として学内で激しく非難され、教授のポストを剥奪された上で追放されます。さらに、極左テロの危険にもさらされ、ついに36年8月、53歳のときに国外亡命の道を選びました。
フランスのパリに活動の拠点を置き、オランダやアルゼンチンを訪れたり、南ポルトガルで静養したりしながらスペイン内戦の様子を見守り、ようやく帰国できたのは第二次世界大戦が終結した45年8月。そこから10年間をスペインで過ごして、55年に亡くなりました。こうして見ると分かるように、オルテガは高みから「大衆」批判をした人ではなく、自身が指摘した「大衆社会がもたらした弊害」を是正するために、そのさなかに身を投じた人でした。
その陰には、人間に対する信頼があったと思います。人間は捨てたものではないはずだという感覚、どこかで「何とかなるはずだ」と思っているような、ある種のオプティミズム(楽観主義)が彼にはあったのではないでしょうか。
だからこそオルテガは政治の世界に打って出たわけですが、そこに待ち構えていたのは、想像していた以上の「大衆の反逆」だった。それで彼は徹底的に迫害され、亡命せざるを得なくなった。それがオルテガの人生だったと思います。
私自身も、さまざまな形で政治にかかわることが多いのですが、このオルテガの、象牙の塔にこもらないところ、ペシミズムに走らず、人間への信頼を捨てていないところに、とても共感します。
同時に、オルテガは「大衆に迎合しない」人でもありました。大衆とともにありつつも、自分自身はあくまで孤独であろうとし続ける。迎合はしないけれど、孤立もしない。そのバランスが、オルテガの独特なところだと思います。
■『NHK100分de名著 オルテガ 大衆の反逆』より

NHKテキストVIEW

オルテガ『大衆の反逆』 2019年2月 (100分 de 名著)
『オルテガ『大衆の反逆』 2019年2月 (100分 de 名著)』
NHK出版
566円(税込)
商品を購入する
>> Amazon.co.jp
>> HonyaClub.com
>> HMV&BOOKS

« 前のページ | 次のページ »

BOOK STANDプレミアム