スピノザが考える「自殺」と「死」

スピノザの有名な概念の一つに「コナトゥス conatus」があります。これは「自分の存在を維持しようとする力」を指し、ある物が持つコナトゥスという力こそが、その物の「本質 essentia」であるとスピノザは考えています。
どんな存在にもどんな存在にも自分の存在を維持しようとする力が働いているとすれば、自殺はなぜ起こるのでしょうか。実はスピノザはこの問いについても答えを用意しています。哲学者で東京工業大学教授の國分功一郎(こくぶん・こういちろう)さんが、『エチカ』から該当箇所を引いて解説します。

* * *

あえて言うが、何びとも自己の本性の必然性によって食を拒否したり自殺したりするものでなく、そうするのは外部の原因に強制されてするのである。

(第四部定理二〇備考)



つまり自殺の場合、本人には意識されないかもしれないが、何らかの外部の原因がそれを強制しているということです。コナトゥスはもちろん働くけれども、外部の原因が圧倒的であり、自分の存在を維持しようとする力が、いわばキャパシティオーバーになってしまう。たとえば、幼い頃、激しい虐待を受けていて、その記憶に耐えきれず、生きるのがつらい。あるいは何かの責任に追い詰められて、その状況の苦しさに耐えることができない。ポイントは、自殺と呼ばれているものであっても、自分が原因になっているのではなくて、外部に原因が、しかも圧倒的な原因があるということです。
驚くべきことにスピノザはここで「食の拒否」という事象についても考察しています。実際にここで想定されているのが拒食症に近いものであるのか、17世紀に拒食症のような症状が知られていたのか、私には分かりません。いずれにせよ、それは自分のコナトゥスが外部の圧倒的な原因によって踏みにじられた状態において起こるとスピノザは考えているわけです。これは活動能力を低めるどころか、力そのものが踏みにじられる状態です。外部の力によって自分が完全に支配されてしまい、うまく自分のコナトゥスに従って生きることができない。スピノザは自殺や食の拒否のことまで考えてコナトゥスという概念を提示しているのです。
では、死についてはどう考えればよいのでしょうか。本質を力としてとらえるスピノザ哲学からはどのような死の概念が導き出せるのか。スピノザは次のように述べています。
人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいかなる理由も存しない〔…〕。

(第四部定理三九備考)



いわゆる死、私が死骸になる死というのは、私の本質を支えていた諸々の部分の関係が変化し、別物になってしまうということです。ですが、そのような変化は死骸になる時にだけ起こることではないとスピノザは言っている。
この箇所では「あるスペインの詩人」のエピソードが紹介されています。その詩人は病気にかかり、そこから回復はしたものの、自分の過去を忘れてしまって、自分がかつて作った物語や悲劇を自分の作品だと信じなかったというのです。スピノザはこの詩人は一度死んだも同然であると考えます。個体の中の諸部分の組み合わせ、この場合にはこの詩人の精神の中の諸部分の組み合わせかもしれませんが、それが本格的に変更され、ある閾値(しきいち)を超えた時、本質は全く違うものに生まれ変わることがあり得る。それはある種の死であるというわけです。
スピノザは子どもの成長の例も挙げています。大人は、自分がかつて子どもであったことを信じることができないほどに、いまの自分の本質と子どもの時の本質が異なることを知ります。ここでも人は一度生まれ変わっている、つまりある意味で一度死んでいると考えられるというわけです。
■『NHK100分de名著 スピノザ エチカ』より

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