男子も読もう、赤毛のアン
脳科学者・作家・ブロードキャスターの茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)さんは、『赤毛のアン』が「少女のための児童文学」と決めつけられている現状をもったいないのではないかと考えています。
* * *
『赤毛のアン』の物語は、孤児院にいた11歳の少女アン・シャーリーが、年老いた兄妹のマシュウとマリラのもとに引き取られるところから始まります。生まれて3か月で両親を亡くしてしまったアンにとっては期待に溢れた出だしですが、兄妹の望みが実は男の子だったということから、さっそく大問題が発生します。
11歳の女の子として僕たちの前に登場するアンは、今回皆さんと一緒に読む『赤毛のアン(原題Anne of Green Gables )』の終わりでは16歳になります。ですから、この物語は子どもが成長していくお話として読むことができるわけですが、児童文学というジャンルに置かれ、時に少女のための小説と決めつけられているように見える現状は、少しもったいないのではないかと僕は思っています。
念のため言い添えておきますと、これは日本に限った現象ではありません。カナダで原書を探した時に書店でなかなか見つけることができずにいたら、「ジュブナイル(juvenile)」、つまりティーンエイジャー向けのコーナーに置かれていました。もちろん、10代で読んでいただきたい名作には違いないのですが、あまりにジャンル分けを明確にしてしまうと、そのカテゴリーからはずれた読者の手に届きにくくなるという危惧もあります。
僕自身が初めて『赤毛のアン』の本を手に取ったのは小学校5年生、11歳の時でした。ある日、図書館の書棚を眺めていて、『赤毛のアン』の背表紙だけがぱっと輝いているように見えて、導かれるように手を伸ばしたのです。おもしろいかおもしろくないかまだ判断できないはずなのに、読む前から惹きつけられる本というのがたまにありますね。脳科学者としては、そこで神秘的な解釈はしませんが、僕にとってはそういう数少ない貴重な本です。
とはいえ、読んですぐに「傑作だ!」と思ったわけではありません。夢中で読んだけれど、「これはなんなのだろう?」という読後感で、つかみきれない。惹き込まれるのに、その理由がよくわからない。
どうやら、このように、好きな理由がすぐにはわからないというのは、「傑作」の特徴のようです。のちに、大学生の頃、小津安二郎監督の映画『東京物語』を見た時にも、似たような経験をしました。作品のどこがそんなに好きなのか、長い時間をかけてわかっていくのです。
当時の僕は外で草野球をしたり、蝶を追いかけて野山を駆け回ったりする普通の男の子でしたから、僕と『赤毛のアン』のイメージが結びつかないことは自分でもわかっていました。漫画も『巨人の星』のようなスポ根ものに触れていたくらいで、少女漫画は読んだことがありません。だから、こっそり読み耽る。まずは『赤毛のアン』を繰り返し読み、続編があると知ると、次々と読み進めました。11歳同士で出会ったアンはどんどん大きくなっていきます。こうして僕は、中学に入る前にアン・シリーズ10冊を読破する、かなり熱心な読者になっていたのです。
その後もファンクラブに入会したり、舞台であるプリンス・エドワード島に行ったりと、かなり濃密に『赤毛のアン』とつきあってきました。何冊か『赤毛のアン』についての本も書き、今回ついに「100分de名著」の指南役をお引き受けしたわけですが、おそらく一番驚いているのは、当時いっしょに遊んでいた小中学校の男友達だと思います。
そういう僕が、長年何度も繰り返し読んでわかったことは、『赤毛のアン』は教養小説、ドイツ語だとビルドゥングスロマン(Bildungsroman)と呼ばれる分野に含まれる小説ではないかということです。ただ、教養小説の定義は「主人公が幼年期の幸福な眠りから次第に自我に目覚めて、友情や恋愛を経験し、社会の現実と闘って傷つきながら、自己形成をしていく過程を描いた長編小説」とされています。ゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』やロマン・ロランの『ジャン=クリストフ』などが代表的な作品ですが、『赤毛のアン』は普通の子の成長物語ではなく、環境に恵まれていない、つらい立場にいた子が、良好な環境を得ることによって輝き始めていくという、ちょっと特別な成長物語です。でもだからこそ、どんな子どもでも機会さえ与えられれば、その子自身の資質をぐんぐんと伸ばすことができるのだという、希望の物語だと思います。
子どもの時には気づかなかったことですが、『赤毛のアン』で成長するのは主人公だけではありません。マシュウとマリラに出会うことで成長していくアンと一緒に、マシュウとマリラも成長するのです。すでに50歳を超えていた二人の大人が、アンと出会ったことで思いもよらぬ変化を遂げていく。人が人と出会うことの大切さ、人間の変わっていく可能性が描かれています。それはヒューマニズムと呼ぶべきものかと思います。言葉で説明されても正しく理解しにくいヒューマニズムの精神が、アンの物語を読むことですうっとこちらに入ってくるのです。
もうひとつ忘れてはならないのは、この本の舞台のプリンス・エドワード島の魅力です。アンの言葉で表現される島の素晴らしい景色が読者の脳裡(のうり)に広がって、この世で一番美しい場所として印象に残ります。
では、男の子も大人も楽しめる『赤毛のアン』とはどんな物語なのか、これから見ていきましょう。
■『NHK100分de名著 モンゴメリ 赤毛のアン』より
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『赤毛のアン』の物語は、孤児院にいた11歳の少女アン・シャーリーが、年老いた兄妹のマシュウとマリラのもとに引き取られるところから始まります。生まれて3か月で両親を亡くしてしまったアンにとっては期待に溢れた出だしですが、兄妹の望みが実は男の子だったということから、さっそく大問題が発生します。
11歳の女の子として僕たちの前に登場するアンは、今回皆さんと一緒に読む『赤毛のアン(原題Anne of Green Gables )』の終わりでは16歳になります。ですから、この物語は子どもが成長していくお話として読むことができるわけですが、児童文学というジャンルに置かれ、時に少女のための小説と決めつけられているように見える現状は、少しもったいないのではないかと僕は思っています。
念のため言い添えておきますと、これは日本に限った現象ではありません。カナダで原書を探した時に書店でなかなか見つけることができずにいたら、「ジュブナイル(juvenile)」、つまりティーンエイジャー向けのコーナーに置かれていました。もちろん、10代で読んでいただきたい名作には違いないのですが、あまりにジャンル分けを明確にしてしまうと、そのカテゴリーからはずれた読者の手に届きにくくなるという危惧もあります。
僕自身が初めて『赤毛のアン』の本を手に取ったのは小学校5年生、11歳の時でした。ある日、図書館の書棚を眺めていて、『赤毛のアン』の背表紙だけがぱっと輝いているように見えて、導かれるように手を伸ばしたのです。おもしろいかおもしろくないかまだ判断できないはずなのに、読む前から惹きつけられる本というのがたまにありますね。脳科学者としては、そこで神秘的な解釈はしませんが、僕にとってはそういう数少ない貴重な本です。
とはいえ、読んですぐに「傑作だ!」と思ったわけではありません。夢中で読んだけれど、「これはなんなのだろう?」という読後感で、つかみきれない。惹き込まれるのに、その理由がよくわからない。
どうやら、このように、好きな理由がすぐにはわからないというのは、「傑作」の特徴のようです。のちに、大学生の頃、小津安二郎監督の映画『東京物語』を見た時にも、似たような経験をしました。作品のどこがそんなに好きなのか、長い時間をかけてわかっていくのです。
当時の僕は外で草野球をしたり、蝶を追いかけて野山を駆け回ったりする普通の男の子でしたから、僕と『赤毛のアン』のイメージが結びつかないことは自分でもわかっていました。漫画も『巨人の星』のようなスポ根ものに触れていたくらいで、少女漫画は読んだことがありません。だから、こっそり読み耽る。まずは『赤毛のアン』を繰り返し読み、続編があると知ると、次々と読み進めました。11歳同士で出会ったアンはどんどん大きくなっていきます。こうして僕は、中学に入る前にアン・シリーズ10冊を読破する、かなり熱心な読者になっていたのです。
その後もファンクラブに入会したり、舞台であるプリンス・エドワード島に行ったりと、かなり濃密に『赤毛のアン』とつきあってきました。何冊か『赤毛のアン』についての本も書き、今回ついに「100分de名著」の指南役をお引き受けしたわけですが、おそらく一番驚いているのは、当時いっしょに遊んでいた小中学校の男友達だと思います。
そういう僕が、長年何度も繰り返し読んでわかったことは、『赤毛のアン』は教養小説、ドイツ語だとビルドゥングスロマン(Bildungsroman)と呼ばれる分野に含まれる小説ではないかということです。ただ、教養小説の定義は「主人公が幼年期の幸福な眠りから次第に自我に目覚めて、友情や恋愛を経験し、社会の現実と闘って傷つきながら、自己形成をしていく過程を描いた長編小説」とされています。ゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』やロマン・ロランの『ジャン=クリストフ』などが代表的な作品ですが、『赤毛のアン』は普通の子の成長物語ではなく、環境に恵まれていない、つらい立場にいた子が、良好な環境を得ることによって輝き始めていくという、ちょっと特別な成長物語です。でもだからこそ、どんな子どもでも機会さえ与えられれば、その子自身の資質をぐんぐんと伸ばすことができるのだという、希望の物語だと思います。
子どもの時には気づかなかったことですが、『赤毛のアン』で成長するのは主人公だけではありません。マシュウとマリラに出会うことで成長していくアンと一緒に、マシュウとマリラも成長するのです。すでに50歳を超えていた二人の大人が、アンと出会ったことで思いもよらぬ変化を遂げていく。人が人と出会うことの大切さ、人間の変わっていく可能性が描かれています。それはヒューマニズムと呼ぶべきものかと思います。言葉で説明されても正しく理解しにくいヒューマニズムの精神が、アンの物語を読むことですうっとこちらに入ってくるのです。
もうひとつ忘れてはならないのは、この本の舞台のプリンス・エドワード島の魅力です。アンの言葉で表現される島の素晴らしい景色が読者の脳裡(のうり)に広がって、この世で一番美しい場所として印象に残ります。
では、男の子も大人も楽しめる『赤毛のアン』とはどんな物語なのか、これから見ていきましょう。
■『NHK100分de名著 モンゴメリ 赤毛のアン』より
- 『モンゴメリ『赤毛のアン』 2018年10月 (100分 de 名著)』
- NHK出版
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