『走れメロス』の主人公は誰か
太宰治(だざい・おさむ)の代表作の一つ『走れメロス』。批評家、随筆家の若松英輔(わかまつ・えいすけ)さんは、「この作品の主人公は誰か」と問いかけます。
* * *
■メロスは主人公か?
「走れメロス」は、太宰治のいくつかある代表作のうちで、もっとも多く読まれた作品の一つです。さて、この作品の主人公は、誰だと思いますか?
題名に名前が出てくるぐらいですから、やはりメロスでしょうか。実際、物語を読み進めると、登場場面も多く、メロスがいちばん派手に動き回っています。だからこれはメロスの物語なんだ、と思っている人が多いかもしれません。しかし、小説家は、物語の真の姿を、設定の奥深くに潜(ひそ)ませていることがあります。さらにいえば、物語が書き手の手を離れて動き出すこともある。ですから読者は、表面的に言葉をなぞっているだけでは、その真の姿にたどり着けないこともある。「走れメロス」もそのような作品だ、と今の私は考えています。
主人公とは、物語の中でもっとも大きな変化を経験する人物のことであり、その人物がいなければ物語が進まず、展開しない存在です。確かにメロスがいなければ物語は進まない。しかし、もっとも大きな変化を経験したのはメロスではなく、「王」ではないでしょうか。もちろん、メロスを主人公として読むこともできます。ですが、この物語にはそれだけではない奥行きがあります。
あるときまで、私もこの小説をメロスを中心とした物語として読んでいましたが、年齢を重ねると共に、王の苦しみも少し感じられるようになってきました。すると、これまで小説の脇役(わきやく)だと思っていた王が、メロスとはまったく異なるちからをもってその存在を主張し始めたのです。
■王の回心
結論を先取りするようですが、小説の始まりと終わりを見て、王の身に起こった変化を確認してみましょう。
物語は、メロスが「邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王」を殺そうと決意する場面から始まります。「邪智暴虐」とはどんな行いだったのか、町の老人とメロスは、次のような言葉を交わします。
「王様は、人を殺します」
「なぜ殺すのだ」
「悪心(あくしん)を抱(いだ)いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居(お)りませぬ」
「たくさんの人を殺したのか」
「はい、はじめは王様の妹婿(いもうとむこ)さまを。それから、御自身のお世嗣(よつぎ)を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣(けんしん)のアレキス様を」
「おどろいた。国王は乱心か」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒(こば)めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました」
王は、一日に六人も殺すような暴君です。しかし、「乱心」しているのではない。問題は、王が人を信じることができないところにある、と町の老人はいうのです。
「民の声は天の声」という言葉もあります。民衆の言葉はしばしば隠れた真実を告げる。この場面は格言が真実であることを教えてくれているようです。伴侶(はんりょ)やそのほかの家族も信じることのできなかった王は、物語の終わりには次のようなことを語るのです。
「おまえらの望みは叶(かな)ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、王様万歳」
無実の人を、日に六人も処刑する人物が、「信実」を体現した男たちの姿にふれ、自身の内なる「信実」を見出す。さらに、その「信実」を生涯(しょうがい)失いたくないと願い、メロスたちに友にしてほしいと願い出るのです。
当初王は、何かを与える者であり、また、何かを奪(うば)う者として現れました。しかし、ここでの王は、真の赦(ゆる)しを乞(こ)う者であり、それまでは蔑(さげす)んでいた者から、無形の恩恵を受けようとする者に変貌(へんぼう)している。
絶対的な君主だったはずの王は、ここで自らの位という衣装を脱ぎ捨て、ひとりの人間としてメロスたちと同じ地平に、さらには、彼らより低いところに身を置こうとしているのです。
メロスとその親友のセリヌンティウスは、たしかに友情を深めました。しかし彼らは、もともと信頼で結ばれていました。二人は、すでに感じていた信頼と友情を実証した。これも素晴らしいことですが、王が経験したような、生きている次元が根本から変わる「回心」ではありませんでした。王が経験したのは新しく生まれ変わること、「新生」といってもよいほどの出来事でした。
王もまた、心の底では世の平和と自らの心の平安を望んでいたのです。心を通わせ、信じられる人と巡りあいたいと願い、出会いを待っていました。しかし、彼の期待に応える人物にはなかなか遭遇(そうぐう)できないでいた。
また、疑いの心ばかりが大きく、他者を信じることができず、殺していた。こうした王を変えたのは、いったい何だったのか。物語を読み解きながら、一緒に考えていきたいと思います。
■『NHK100分de名著 for ティーンズ』より
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■メロスは主人公か?
「走れメロス」は、太宰治のいくつかある代表作のうちで、もっとも多く読まれた作品の一つです。さて、この作品の主人公は、誰だと思いますか?
題名に名前が出てくるぐらいですから、やはりメロスでしょうか。実際、物語を読み進めると、登場場面も多く、メロスがいちばん派手に動き回っています。だからこれはメロスの物語なんだ、と思っている人が多いかもしれません。しかし、小説家は、物語の真の姿を、設定の奥深くに潜(ひそ)ませていることがあります。さらにいえば、物語が書き手の手を離れて動き出すこともある。ですから読者は、表面的に言葉をなぞっているだけでは、その真の姿にたどり着けないこともある。「走れメロス」もそのような作品だ、と今の私は考えています。
主人公とは、物語の中でもっとも大きな変化を経験する人物のことであり、その人物がいなければ物語が進まず、展開しない存在です。確かにメロスがいなければ物語は進まない。しかし、もっとも大きな変化を経験したのはメロスではなく、「王」ではないでしょうか。もちろん、メロスを主人公として読むこともできます。ですが、この物語にはそれだけではない奥行きがあります。
あるときまで、私もこの小説をメロスを中心とした物語として読んでいましたが、年齢を重ねると共に、王の苦しみも少し感じられるようになってきました。すると、これまで小説の脇役(わきやく)だと思っていた王が、メロスとはまったく異なるちからをもってその存在を主張し始めたのです。
■王の回心
結論を先取りするようですが、小説の始まりと終わりを見て、王の身に起こった変化を確認してみましょう。
物語は、メロスが「邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王」を殺そうと決意する場面から始まります。「邪智暴虐」とはどんな行いだったのか、町の老人とメロスは、次のような言葉を交わします。
「王様は、人を殺します」
「なぜ殺すのだ」
「悪心(あくしん)を抱(いだ)いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居(お)りませぬ」
「たくさんの人を殺したのか」
「はい、はじめは王様の妹婿(いもうとむこ)さまを。それから、御自身のお世嗣(よつぎ)を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣(けんしん)のアレキス様を」
「おどろいた。国王は乱心か」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒(こば)めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました」
王は、一日に六人も殺すような暴君です。しかし、「乱心」しているのではない。問題は、王が人を信じることができないところにある、と町の老人はいうのです。
「民の声は天の声」という言葉もあります。民衆の言葉はしばしば隠れた真実を告げる。この場面は格言が真実であることを教えてくれているようです。伴侶(はんりょ)やそのほかの家族も信じることのできなかった王は、物語の終わりには次のようなことを語るのです。
「おまえらの望みは叶(かな)ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、王様万歳」
無実の人を、日に六人も処刑する人物が、「信実」を体現した男たちの姿にふれ、自身の内なる「信実」を見出す。さらに、その「信実」を生涯(しょうがい)失いたくないと願い、メロスたちに友にしてほしいと願い出るのです。
当初王は、何かを与える者であり、また、何かを奪(うば)う者として現れました。しかし、ここでの王は、真の赦(ゆる)しを乞(こ)う者であり、それまでは蔑(さげす)んでいた者から、無形の恩恵を受けようとする者に変貌(へんぼう)している。
絶対的な君主だったはずの王は、ここで自らの位という衣装を脱ぎ捨て、ひとりの人間としてメロスたちと同じ地平に、さらには、彼らより低いところに身を置こうとしているのです。
メロスとその親友のセリヌンティウスは、たしかに友情を深めました。しかし彼らは、もともと信頼で結ばれていました。二人は、すでに感じていた信頼と友情を実証した。これも素晴らしいことですが、王が経験したような、生きている次元が根本から変わる「回心」ではありませんでした。王が経験したのは新しく生まれ変わること、「新生」といってもよいほどの出来事でした。
王もまた、心の底では世の平和と自らの心の平安を望んでいたのです。心を通わせ、信じられる人と巡りあいたいと願い、出会いを待っていました。しかし、彼の期待に応える人物にはなかなか遭遇(そうぐう)できないでいた。
また、疑いの心ばかりが大きく、他者を信じることができず、殺していた。こうした王を変えたのは、いったい何だったのか。物語を読み解きながら、一緒に考えていきたいと思います。
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