カミュがうち立てた「不条理の哲学」
第一次世界大戦勃発の前年に生まれたアルベール・カミュは、二度の大戦とスペイン内戦を経験しました。その困難のなかで書き、刊行した『異邦人』と『シーシュポスの神話』の二冊で、カミュは「不条理の哲学」をうち立てました。学習院大学教授の中条省平(ちゅうじょう・しょうへい)さんが、当時の社会情勢を鑑みながらカミュの不条理論を紐解きます。
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戦争の苦難のなかで、生きるための仕事と、非合法のレジスタンスと、精力的な執筆活動とを同時に成立させていたのです。考えてみればこれはすごいことで、どうしても書きたいという強い気持ちがなければ不可能な生き方です。
この時期のカミュの不条理論には、部分的にはよく分かるが、全体としては何をいいたいのかが分かりにくいという特徴があります。カミュはまだ「世界の不条理」と、それに対抗する「人間の不条理」とをごっちゃにしているからです。
私なりに整理してみると、世界というのはまぎれもなく不条理なもので、戦争もあり、天災もあり、ペストのような疫病もあり、決定的な災厄として人間に襲いかかってきます。それは不条理、つまり、理不尽で、ばかげている。そして、そんな世界の不条理性に気づいた人間が、人間も不条理であってかまわないのではないか、とその不条理をみずから実践してしまうことがある。『異邦人』のムルソーの場合のように、母親が死んだって悲しまなくていいじゃないか、太陽のせいで人を殺してもいいじゃないか、と人間の生き方に不条理性を拡大していってしまうのです。これがおそらく、人間が不条理に対応するときの第一段階です。自殺やニヒリズムに陥る一歩手前で、どうにか踏みとどまっているという状況です。
そんな不条理の第一段階のあとに、そういう自己をいったん客観視して、世界の不条理に気づいた人間の不条理性にさらに気づいてしまった人間が、ではその不条理をどう乗りこえることができるのか、と考える方向が生まれてきます。これが『ペスト』以降の第二段階です。そこでは世界の不条理と人間の不条理を分けて考え、そのように不条理を二重に意識した人間の生き方や行動の仕方を探求するという姿勢が打ちだされてきます。
『異邦人』は、世界の不条理と人間の不条理に気づいた人間がどう生きるかという姿勢を、まだ決定できない第一段階にとどまっています。おそらくカミュは、主人公に選んだムルソーのような人間がいてもいいとは思っていたでしょうが、全面的に肯定してはいないでしょう。ムルソーは刑務所に監禁されたまま終わり、あとは判決どおり死刑になるか、あるいは自殺するか……。『シーシュポスの神話』で、カミュは自殺を否定しています。それは世界の不条理に対する人間の敗北を肯定することになってしまうからです。世界の不条理に抗しながら生きていく道を探ってこそ人間である、とカミュは考えたのでしょう。だからムルソーのような運命を小説としては描きながらも、自分自身の生き方としては肯定していない。世界と人間の不条理の認識の先で人間はどう生きるか、という第二段階の問いに対する答えの試みが、『ペスト』なのです。
この作品は、ムルソーが唯一の主人公であった『異邦人』とは異なり、群像劇である必要がありました。つまり、人間にはいろいろな生き方があって、それぞれのいいところや悪いところを見定めた上で、はたしてどういう生き方が可能かを多面的に考えていく。そのためには、ひとりの人間だけに寄りそって、その人物にすべてのドラマトゥルギー(作劇術)を集中し、その心理や行動を解剖していくという『異邦人』の小説作法では限界があります。世界と人間の多様性を描くには、さまざまな人物の視点と行動が描かれる群像劇でなくてはなりません。
すると当然それは長篇になり、場面転換も多く含みますから、小説家としての技術的実験を強いられることになります。小説の方法論としては、ひとりの人間に寄りそう近代小説の典型的な方法ではなく、むしろ十九世紀でいえばバルザックやドストエフスキーのような、多くの人物の視点と行動が絡みあう作品に近い方法です。そうした小説が二十世紀に可能か、という挑戦でもあったのでしょう。カミュは五年の歳月を費やして、あえてそのような作品を完成させました。
『ペスト』は戦争が終わってわずか二年後の刊行ですから、戦争とその残響を抜きにしては語れない作品です。これまでしばしば語られてきたのは、戦中のレジスタンスとの関係です。ペストとはナチス・ドイツの隠喩であり、ペストとの戦いにはカミュの対独レジスタンスの経験が反映しているという読み方です。しかし、これはおそらく倒錯した読み方です。最初にレジスタンスという英雄的な主題を描こうという意図があったわけではなく、むしろ逆で、まず、災厄が人間を襲うことの不条理性とその恐怖が、出発点になっていると思うのです。そういう人間の条件の困難さ、人間は世界の不条理によって悲惨な目に遭っているという認識の集約が、たとえば戦争であり、ここではペストであって、その衝撃が彼に『ペスト』を書かせている。結果的に登場人物たちの行動がレジスタンスのように見えたとしても、戦中のカミュのレジスタンス経験を反映していると考えてしまうと、それは単なる寓話化に過ぎなくなってしまいます。
もちろん明らかにカミュ自身の経験に由来する挿話もありますが、世界の不条理が人間を襲う最も典型的な例として天災があり、それを具体的に「ペスト」という形で描くことで、人間がその不条理をどう乗りこえることができるか、あらためて問い直そうとしたと考えるべきでしょう。
■『NHK100分de名著 アルベール・カミュ ペスト』より
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戦争の苦難のなかで、生きるための仕事と、非合法のレジスタンスと、精力的な執筆活動とを同時に成立させていたのです。考えてみればこれはすごいことで、どうしても書きたいという強い気持ちがなければ不可能な生き方です。
この時期のカミュの不条理論には、部分的にはよく分かるが、全体としては何をいいたいのかが分かりにくいという特徴があります。カミュはまだ「世界の不条理」と、それに対抗する「人間の不条理」とをごっちゃにしているからです。
私なりに整理してみると、世界というのはまぎれもなく不条理なもので、戦争もあり、天災もあり、ペストのような疫病もあり、決定的な災厄として人間に襲いかかってきます。それは不条理、つまり、理不尽で、ばかげている。そして、そんな世界の不条理性に気づいた人間が、人間も不条理であってかまわないのではないか、とその不条理をみずから実践してしまうことがある。『異邦人』のムルソーの場合のように、母親が死んだって悲しまなくていいじゃないか、太陽のせいで人を殺してもいいじゃないか、と人間の生き方に不条理性を拡大していってしまうのです。これがおそらく、人間が不条理に対応するときの第一段階です。自殺やニヒリズムに陥る一歩手前で、どうにか踏みとどまっているという状況です。
そんな不条理の第一段階のあとに、そういう自己をいったん客観視して、世界の不条理に気づいた人間の不条理性にさらに気づいてしまった人間が、ではその不条理をどう乗りこえることができるのか、と考える方向が生まれてきます。これが『ペスト』以降の第二段階です。そこでは世界の不条理と人間の不条理を分けて考え、そのように不条理を二重に意識した人間の生き方や行動の仕方を探求するという姿勢が打ちだされてきます。
『異邦人』は、世界の不条理と人間の不条理に気づいた人間がどう生きるかという姿勢を、まだ決定できない第一段階にとどまっています。おそらくカミュは、主人公に選んだムルソーのような人間がいてもいいとは思っていたでしょうが、全面的に肯定してはいないでしょう。ムルソーは刑務所に監禁されたまま終わり、あとは判決どおり死刑になるか、あるいは自殺するか……。『シーシュポスの神話』で、カミュは自殺を否定しています。それは世界の不条理に対する人間の敗北を肯定することになってしまうからです。世界の不条理に抗しながら生きていく道を探ってこそ人間である、とカミュは考えたのでしょう。だからムルソーのような運命を小説としては描きながらも、自分自身の生き方としては肯定していない。世界と人間の不条理の認識の先で人間はどう生きるか、という第二段階の問いに対する答えの試みが、『ペスト』なのです。
この作品は、ムルソーが唯一の主人公であった『異邦人』とは異なり、群像劇である必要がありました。つまり、人間にはいろいろな生き方があって、それぞれのいいところや悪いところを見定めた上で、はたしてどういう生き方が可能かを多面的に考えていく。そのためには、ひとりの人間だけに寄りそって、その人物にすべてのドラマトゥルギー(作劇術)を集中し、その心理や行動を解剖していくという『異邦人』の小説作法では限界があります。世界と人間の多様性を描くには、さまざまな人物の視点と行動が描かれる群像劇でなくてはなりません。
すると当然それは長篇になり、場面転換も多く含みますから、小説家としての技術的実験を強いられることになります。小説の方法論としては、ひとりの人間に寄りそう近代小説の典型的な方法ではなく、むしろ十九世紀でいえばバルザックやドストエフスキーのような、多くの人物の視点と行動が絡みあう作品に近い方法です。そうした小説が二十世紀に可能か、という挑戦でもあったのでしょう。カミュは五年の歳月を費やして、あえてそのような作品を完成させました。
『ペスト』は戦争が終わってわずか二年後の刊行ですから、戦争とその残響を抜きにしては語れない作品です。これまでしばしば語られてきたのは、戦中のレジスタンスとの関係です。ペストとはナチス・ドイツの隠喩であり、ペストとの戦いにはカミュの対独レジスタンスの経験が反映しているという読み方です。しかし、これはおそらく倒錯した読み方です。最初にレジスタンスという英雄的な主題を描こうという意図があったわけではなく、むしろ逆で、まず、災厄が人間を襲うことの不条理性とその恐怖が、出発点になっていると思うのです。そういう人間の条件の困難さ、人間は世界の不条理によって悲惨な目に遭っているという認識の集約が、たとえば戦争であり、ここではペストであって、その衝撃が彼に『ペスト』を書かせている。結果的に登場人物たちの行動がレジスタンスのように見えたとしても、戦中のカミュのレジスタンス経験を反映していると考えてしまうと、それは単なる寓話化に過ぎなくなってしまいます。
もちろん明らかにカミュ自身の経験に由来する挿話もありますが、世界の不条理が人間を襲う最も典型的な例として天災があり、それを具体的に「ペスト」という形で描くことで、人間がその不条理をどう乗りこえることができるか、あらためて問い直そうとしたと考えるべきでしょう。
■『NHK100分de名著 アルベール・カミュ ペスト』より
- 『アルベール・カミュ『ペスト』 2018年6月 (100分 de 名著)』
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