徳川慶喜が用意したフレンチフルコース 起死回生の「食卓外交」

幕府の存亡をかけた慶喜の"勝負メシ"。 記録にある「料理献立書」の中から3品を現在入手しやすい材料を使って再現。作り方はテキストに掲載しています。(料理:田島加寿央さん 撮影:久間昌史さん)
慶応3年(1867)、徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)が大坂城内にイギリス・オランダ・フランス・アメリカの4か国の公使の饗応(きょうおう)に用意したのは、なんと本格的な「フランス料理のフルコース」。しかしその饗応は、兵庫開港をめぐる各国との激しい交渉の場でもありました。その歴史的意味合いと、饗応の内容について、戸定歴史館館長・齊藤洋一(さいとう・よういち)さんと志學館大学教授の原口 泉(はらぐち・いずみ)さんに語り合っていただきます。

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■薩摩対幕府の外交戦争

原口 確かに、慶喜は大変な時期に将軍になりましたね。最初は横浜鎖港を掲げる攘夷路線だったのが、急に開港路線になったというので、口さがない京都市民などは名物「にしんそば」に引っ掛けて、慶喜のことを「二心さま」などと皮肉ったそうです。
就任の翌年、パリ万博があったのですが、ここでも一国の代表は幕府と思いきや、ほかに薩摩藩と佐賀藩が出展していて、薩摩などは「日本薩摩琉球国太守政府」の名で、まるで日本代表です。おまけに独自の勲章までつくったので、さすがに幕府は薩摩藩に抗議したのですがどこ吹く風でした。
派遣された慶喜の弟・昭武は、帰りの船で鹿児島が見えると、「あのならずものの薩摩め」とフランス語で日記に書いたくらいです。ですから慶喜はこの「食卓外交」に賭ける気持ちが強かったのでしょうね。
齊藤 そうです。まずなぜ慶喜が、就任直後の慶応3年(1867)3月に大坂城でこういうことをやろうと思ったのか。幕府の公式記録によれば、最初にこの話が出てきたのは前年の11月、外国奉行が今回の式典に対する意義・目的を明確に述べているんですね。これまではいろいろな不都合があった。いくら日本食でもてなしても、外国人は日本食を食べられないということが書いてあります。
今回の儀礼というのは、基本的には将軍代替わりのお披露目であり、加えて政治的には兵庫開港問題への対応があります。やいのやいのとうるさい外国との、極めてハードな交渉をしなくてはなりません。
なおかつ、ご指摘のような薩摩への対抗心もあります。当時の幕府が置かれていた状況は、第二次長州征討で軍事的な完敗を喫していて、他藩からだけでなく幕臣たちからも盤石の支持を受けていたわけではないのです。そういう極めて厳しい状況の中で、どう外交戦争のスタートを切るのか、そのことを述べた最初の外国奉行は、私はおそらく栗本鋤雲(くりもと・じょうん)だとにらんでいます。彼は、今回のことは外国がおそらく詳しく記録をし、新聞にも載せられて欧州の万民も見るだろうと、そういうことがきちんとわかっています。
栗本はフランス語が堪能で、フランス公使ロッシュの通訳・カションなどと親交がありましたから、外交に関してトップクラスの知識を持っていたでしょう。この成功は幕府の今後の権威に大きく関わる、だからこそ盛大にやらなくてはいけない、という明確な目的・目標を持って準備を始めています。
原口 この外国奉行の指摘は的を射ていますね。というのは、最初にパークスを応接したのは、前年6月の薩摩での大接待でしょうが、そのメニューは和食主体でした。西洋人にとっての和食は、イギリス人医師ウィリアム・ウィリスが、「とても食えたもんじゃない」と、家族に本音を書き送っています。
献立は横浜の英字新聞にも出ていて、「日本調の割烹をもって45種を備え、実に驚くべき饗応なり。ほかに日本酒、ならびにシャンペイン、セルリー(シェリー酒)、ビール共に洋酒、獣肉等を備えり」などと日本語訳されています。
ただ洋食も出るには出たようで、英国外交官アーネスト・サトウの日記には、「ごちそうは、酒と2、3品の日本料理ではじまったが、飲みものにはシェリー酒、シャンペン、ブランディなども出され、次々と洋食の皿が運ばれた」とあります。
しかしやはり翌日には、「本当のことを言うと、ごちそうはそんなによくはなかったし、料理の取り合わせも感心したものではなかった」と書いています。
齊藤 外国奉行の表現は、「日本料理ではだめ」とやけに断定的だったんですが、今のお話と一致しますね。あるいはウィリスの情報が入っていたのかもしれません。

■本格的な西洋料理の饗応

齊藤 慶喜がこの饗応の準備を始めた慶応2年11月というのは、実は昭武をパリ万博に派遣することを命じた時期でもあります。
フランス公使ロッシュから、たびたびしかるべき人を派遣してほしいと言われていたので、昭武を水戸徳川家から移籍して清水家の家督を相続させ、同時にパリ万博に派遣すると決めたのがこの11月でした。
同じ時期のこの2つの決定は、必ずセットで考えるべき事柄だと思います。
まず、パリ万博は国際外交の本場であり、幕府にとって最重要パートナーであるフランスに、ロシア皇帝など世界の錚々たるお歴々がやってくる。そこでどういう戦略を展開するのかということ。
そしてもう一方の国内においては、何をするべきかということになり、それなら料理だろう、饗応だろうという、見事すぎるほど明快な外国奉行の提案でした。
そして慶応3年2月の段階で、栗本がロッシュと直接会談で最後の詰めの相談をし、横浜のホテル「オテル・デ・コロニー」の経営者ラプラスに料理を頼んではどうか、ということになったのです。
原口 やはりこれは、おそらく日本で初めての本格的な西洋料理での饗応ということになるでしょうから、薩摩での和食主体の饗応の上を行きたいという意図が、ありありと見て取れますね。つまりこれはもう幕府と薩摩の熾烈(しれつ)な「食卓外交」合戦です。
幕府と薩摩の2つの大きな外交戦争のうち、パリ万博でのつばぜり合いで幕府は涙をのみ、もうひとつは前年の薩摩による接待外交より、はるかに規模が上回る本格的な西洋料理による食卓外交で、慶喜は徳川の最後の意地を見せたということでしょうか。平たく言うと、「ざまあみろ、薩摩よりはるかに上だろう」と。(笑)
予算上はどうでしょう。薩摩では法外な額を使っています。4、5万両です。
齊藤 大坂城での饗応は、フランス人、ワッソールが全体をトータル・パッケージで請け負い、予算に関しては1万4千ドルと書いてあります。両に換算すると約1万1千両になります。でも薩摩の4、5万両というのは半端じゃありませんね。
原口 そうなんです、イギリスに対する過度な接待への批判の中で、イギリス海軍と薩摩藩の共同軍事演習に対しては、攘夷の気持ちの強い多くの人たちから反感もあるだろうからと、その場に前藩主・島津斉彬の肖像を掲げているんです。斉彬は薩摩にとっては錦の御旗ですから、誰も反論できません。
齊藤 大坂での饗応は、正式謁見に先立つ内謁見を、イギリスを皮切りに3月25、26、27、29日の4回にわたって、大坂城で四か国ごとに別々に行い、ここでフランス料理のフルコースをふるまったのです。
正式謁見は、英蘭仏が28日、米が4月1日に行いましたが、慶喜の狙いは、形骸化していた儀礼を欧米人の琴線に届く形式に変えようとしたことでしょうね。
大坂城の御殿・白書院の次之間に椅子やテーブルを運び込み、フランス料理17品、菓子類10品、酒類5種が出たあと、さらに部屋を連歌の間に移してコーヒーと葉巻、リキュール9種、そして茶(これは紅茶でしょう)の12品が出されたので、まさに至れり尽くせりです。
神秘的な存在だった将軍が、各国代表とテーブルを囲んで、歓談をしながら厳しい政治交渉を行い、そこで兵庫開港を決断したことを各国代表に伝えたわけです。
しかも慶喜は、連歌の間の歌人の絵を各公使に贈呈しています。遠慮するパークスに、「そこにあった絵が、今は英国公使の家に飾られていると考えれば、きっとうれしく思います」と話して心をつかんだようです。
パークスはもともと幕府に批判的でしたが、「英明な新将軍によって幕府はよみがえるかもしれない」と、イギリスの外務大臣・ハモンドへの書簡の中で、慶喜のことをここまで褒めるかというくらい絶賛しています。
「外国人に対する友好的外交についてのみでなく、高級の能力と人を引き付ける行動・外観についてもすてきな印象を得た」とし、「日本の対外関係の改善におけるのみならず、国内問題の処理においても、好もしい一時期を画するであろう」と。
原口 その意味では慶喜の食卓外交は、相当の成果を上げたということでしょう。慶喜が導入したフランス料理とコーヒーは、その後、洗練された日本の文化の一翼を担うようなものになっていったので、その意味では、この「食卓外交戦争」は旧幕府に軍配が上がるような気がしますね。
※つくり方はテキストに掲載しています。
■『NHK趣味どきっ! 幕末維新メシ』より

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