元祖キャラ小説『ノートル=ダム・ド・パリ』
神話においては、「おおまかなストーリー」のほかに、もう一つ変わらないものがあります。それはマンガ・アニメ用語でいう「キャラ」です。神話では、ストーリーは無限に再話され、変奏され、登場人物の行動や言葉にさまざまなバリエーションが加えられますが、基本的なキャラクター、つまりキャラは変わりません。というよりも、キャラを変えることは禁じられています。なぜなら、無数の作者・語り手が新しい要素を付け加えていくには「キャラ」の同一性が保たれていなくてはいけないからです。
代表的な4人の登場人物の「キャラ立ち」ぶりを見てみましょう。フランス文学者で、明治大学教授の鹿島茂(かしま・しげる)さんが解説します。
* * *
『ノートル=ダム・ド・パリ』にはもう一つ、他の小説と決定的に違うところがあります。それは、構造が演劇的なつくり方になっているという点です。
小説のつくり方は、作者が自己の代弁者となるような登場人物を一人選び、その人物の視点や語り口に仮託しながら物語を語っていくのが常道です。読者はその登場人物の視点から物語の世界を眺め、理解してゆきます。小説が三人称で語られている場合も同じことです。
これに対し、戯曲の場合は、葛藤を対立する複数の登場人物が交わすセリフの力学として描かなければなりません。どれか一人の登場人物に思いを仮託することは許されないのです。ユゴーは演劇から小説に入ってきた人ですから、複数の登場人物を立てて、彼らの「キャラ」の対立として葛藤(ドラマ)を描くという演劇的なつくり方をしています。
それゆえ、ユゴーの登場人物たちは、いずれも、いわゆるエッジの立った演劇的キャラとして物語の中に現れてきます。「キャラ立ち」している、ということもできます。アニメやゲームの「キャラ」づくりにもつながる技法です。
ではこの小説で、ユゴーはいったいどんな魅力的な「キャラ」をつくり出したのでしょうか? 4人の代表的な登場人物を簡単に紹介して、その「キャラ立ち」ぶりを見てみましょう。
クロード・フロロ……ノートル=ダム大聖堂の司教補佐。36歳。ブルジョワの出身ながら幼いときから僧職を志し、真面目に勉学に打ち込む学徒となった。19歳のとき両親をペストで亡くし、幼い弟のジャンにその愛情を注ぐようになる。乳飲み子だったので里子に出し、自身はノートル=ダム大聖堂の司祭となって身を僧職に捧げる。あるとき、大聖堂で異形の捨て子を拾い、カジモドと名づけて、これを育てることにする。禁欲的に学問を追求するきわめて知的な聖職者だが、絶世の美女である踊り子エスメラルダに魅了され、叶わぬ恋と嫉妬の炎に身を焦がす。映画などでは悪役キャラとして描かれているが、実は作者自身の抱える矛盾がかなり投影された、陰影に富む複雑な主人公(アンチ・ヒーロー)である。欲望の抑制を運命づけられながら、エスメラルダへの強い愛に翻弄されるという宿命を負った矛盾の塊のようなキャラである。
カジモド……ノートル=ダム大聖堂の鐘番。20歳。外見は怪物のようだが、清い心の持ち主。養父クロード・フロロに犬のように忠実に仕えるが、エスメラルダと出会い、本能的な愛を感じることにより、しだいに自我に目覚めてゆく。ユゴーはこういう怪物的なキャラが好きで、『笑う男』(1869)という小説では、17世紀のイギリスを舞台に、幼いときに口の両端を裂かれて常に笑っているような顔にされてしまった主人公を登場させている(『バットマン』シリーズの悪役ジョーカーの原型)。ユゴーをはじめとするロマン派には、このような異形の存在をフィーチャーする特徴があった。
エスメラルダ……ジプシーの踊り子。16歳。いつもジャリという可愛い小ヤギを連れている。官能的な見かけと反対に、清らかで純真な心をもち、エロスと少女性を兼ね備える。彼女もまた孤児で、幼い頃に生き別れた親を探している。社会的階層は低いが野性味に溢れた情熱的な美女という「掃き溜めに咲いたバラ一輪」的キャラ。ユゴーの好みのタイプである。本人にはその自覚がないが、男たちを身もだえさせ、恋した男たちはみな身を滅ぼすという宿命の美女(ファム・ファタル)の原型でもある。
フェビュス……王室射手隊の隊長。「女という女はみんな、ついふらふらとなるというタイプの美男子」だが、内容は空っぽで、虚栄心が強いだけの洒落者(しゃれもの)。名家の娘フルール=ド=リという婚約者がいる。エスメラルダに恋され、遊び半分で誘惑するが、嫉妬したフロロに殺されそうになる。
さて、以上が多少ともエッジの立った主役級の4人のキャラですが、一つ、これに例の神話分析を応用してみましょう。神話素となるのは美貌、性格、地位身分、知性、身体能力、愛情などですが、これをプラス、マイナスの二項対立でリストをつくってみると次のようになります。
この中で、フロロだけはこうした神話素分析を超えた複雑さを有していますが、それ以外は、どの登場人物も神話素分析にかけられるほどの単純さを示しているわけで、その意味では、やはり『ノートル=ダム・ド・パリ』は近代小説というよりも神話的小説ということができるのですが、では、単純で通俗的でくだらないものなのかというと、全然そうではないという点にこそ問題が存しているのです。
つまり、『ノートル=ダム・ド・パリ』は神話的小説で「あるにもかかわらず」興味深いのではなく、神話的小説で「あるがために」興味深い、ということであるのです。言い方をかえれば、『ノートル=ダム・ド・パリ』は近代的小説ではないが、「超」近代的小説ではあるということになります。
■『NHK100分de名著 ユゴー ノートル=ダム・ド・パリ』より
代表的な4人の登場人物の「キャラ立ち」ぶりを見てみましょう。フランス文学者で、明治大学教授の鹿島茂(かしま・しげる)さんが解説します。
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『ノートル=ダム・ド・パリ』にはもう一つ、他の小説と決定的に違うところがあります。それは、構造が演劇的なつくり方になっているという点です。
小説のつくり方は、作者が自己の代弁者となるような登場人物を一人選び、その人物の視点や語り口に仮託しながら物語を語っていくのが常道です。読者はその登場人物の視点から物語の世界を眺め、理解してゆきます。小説が三人称で語られている場合も同じことです。
これに対し、戯曲の場合は、葛藤を対立する複数の登場人物が交わすセリフの力学として描かなければなりません。どれか一人の登場人物に思いを仮託することは許されないのです。ユゴーは演劇から小説に入ってきた人ですから、複数の登場人物を立てて、彼らの「キャラ」の対立として葛藤(ドラマ)を描くという演劇的なつくり方をしています。
それゆえ、ユゴーの登場人物たちは、いずれも、いわゆるエッジの立った演劇的キャラとして物語の中に現れてきます。「キャラ立ち」している、ということもできます。アニメやゲームの「キャラ」づくりにもつながる技法です。
ではこの小説で、ユゴーはいったいどんな魅力的な「キャラ」をつくり出したのでしょうか? 4人の代表的な登場人物を簡単に紹介して、その「キャラ立ち」ぶりを見てみましょう。
クロード・フロロ……ノートル=ダム大聖堂の司教補佐。36歳。ブルジョワの出身ながら幼いときから僧職を志し、真面目に勉学に打ち込む学徒となった。19歳のとき両親をペストで亡くし、幼い弟のジャンにその愛情を注ぐようになる。乳飲み子だったので里子に出し、自身はノートル=ダム大聖堂の司祭となって身を僧職に捧げる。あるとき、大聖堂で異形の捨て子を拾い、カジモドと名づけて、これを育てることにする。禁欲的に学問を追求するきわめて知的な聖職者だが、絶世の美女である踊り子エスメラルダに魅了され、叶わぬ恋と嫉妬の炎に身を焦がす。映画などでは悪役キャラとして描かれているが、実は作者自身の抱える矛盾がかなり投影された、陰影に富む複雑な主人公(アンチ・ヒーロー)である。欲望の抑制を運命づけられながら、エスメラルダへの強い愛に翻弄されるという宿命を負った矛盾の塊のようなキャラである。
カジモド……ノートル=ダム大聖堂の鐘番。20歳。外見は怪物のようだが、清い心の持ち主。養父クロード・フロロに犬のように忠実に仕えるが、エスメラルダと出会い、本能的な愛を感じることにより、しだいに自我に目覚めてゆく。ユゴーはこういう怪物的なキャラが好きで、『笑う男』(1869)という小説では、17世紀のイギリスを舞台に、幼いときに口の両端を裂かれて常に笑っているような顔にされてしまった主人公を登場させている(『バットマン』シリーズの悪役ジョーカーの原型)。ユゴーをはじめとするロマン派には、このような異形の存在をフィーチャーする特徴があった。
エスメラルダ……ジプシーの踊り子。16歳。いつもジャリという可愛い小ヤギを連れている。官能的な見かけと反対に、清らかで純真な心をもち、エロスと少女性を兼ね備える。彼女もまた孤児で、幼い頃に生き別れた親を探している。社会的階層は低いが野性味に溢れた情熱的な美女という「掃き溜めに咲いたバラ一輪」的キャラ。ユゴーの好みのタイプである。本人にはその自覚がないが、男たちを身もだえさせ、恋した男たちはみな身を滅ぼすという宿命の美女(ファム・ファタル)の原型でもある。
フェビュス……王室射手隊の隊長。「女という女はみんな、ついふらふらとなるというタイプの美男子」だが、内容は空っぽで、虚栄心が強いだけの洒落者(しゃれもの)。名家の娘フルール=ド=リという婚約者がいる。エスメラルダに恋され、遊び半分で誘惑するが、嫉妬したフロロに殺されそうになる。
さて、以上が多少ともエッジの立った主役級の4人のキャラですが、一つ、これに例の神話分析を応用してみましょう。神話素となるのは美貌、性格、地位身分、知性、身体能力、愛情などですが、これをプラス、マイナスの二項対立でリストをつくってみると次のようになります。
この中で、フロロだけはこうした神話素分析を超えた複雑さを有していますが、それ以外は、どの登場人物も神話素分析にかけられるほどの単純さを示しているわけで、その意味では、やはり『ノートル=ダム・ド・パリ』は近代小説というよりも神話的小説ということができるのですが、では、単純で通俗的でくだらないものなのかというと、全然そうではないという点にこそ問題が存しているのです。
つまり、『ノートル=ダム・ド・パリ』は神話的小説で「あるにもかかわらず」興味深いのではなく、神話的小説で「あるがために」興味深い、ということであるのです。言い方をかえれば、『ノートル=ダム・ド・パリ』は近代的小説ではないが、「超」近代的小説ではあるということになります。
■『NHK100分de名著 ユゴー ノートル=ダム・ド・パリ』より
- 『ユゴー『ノートル゠ダム・ド・パリ』 2018年2月 (100分 de 名著)』
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