『ノートル=ダム・ド・パリ』は神話的小説である

ヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』は神話的小説である、とフランス文学者で、明治大学教授の鹿島茂(かしま・しげる)さんは指摘します。その論拠を伺いました。

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この小説には、ユゴー内部のさまざまな矛盾がそのまま入り込んでいるかのような印象がありますが、その矛盾は実は、小説のナレーションの形式にも表れています。
『ノートル=ダム・ド・パリ』は匿名の作者が神の視点からすべてを眺めて物語を統御するという近代的な小説のナレーション形式というよりも、口承文芸的な複数の作者による神話的なナレーションが採用されていると言ったほうが適切です。
では、神話的なナレーションというのはどのようなものなのでしょうか?
それは、『ノートル=ダム・ド・パリ』が、読まれざる小説であるにもかかわらず、何度も映画化されたり、ミュージカル化されたりしていることと関係しています。
一般に、フロベールの『ボヴァリー夫人』のような近代小説は一字一句変更できないとされています。これを文学批評の用語では「作家性」と呼びます。ところが『ノートル=ダム・ド・パリ』はヴィクトル・ユゴーという作者がいるにもかかわらず、むしろ、こうした「作家性」が成り立つ以前の、譬(たと)えて言えば「神話」のような要素を含んでいるのです。
神話というのは、ギリシャ神話にしろ日本神話(『古事記』)にしろ、だれもテクストを読んだことはなくても、その内容くらいは知っているものです。実は、これが神話の特徴なのです。つまり「おおまかなストーリー」はあるけれども、これといって定まったテクストがないということなのです。
「おおまか」という意味は、新しく神話の創造に加わろうとする人が現れると、細部を変更してもかまわない約束になっていることを意味します。神話は歴代の書き手、語り手が自由に細部を付け加えた結果、さまざまなバリエーションをもつ物語に膨れ上がっていますが、おおもとのストーリーそのものは変わりません。
『ノートル=ダム・ド・パリ』は、まさしく、こうした神話的な特徴をもった小説です。これを完読した人はかなり忍耐力のある人です。しかし、だれもが「おおまかなストーリー」は知っています。ときには、「知っているおおまかなストーリー」が『ノートル=ダム・ド・パリ』に由来することさえ知らない人がいたりします。作品名よりも「おおまかなストーリー」が先行してしまう類(たぐ)いの作品なのですが、まさにそのことが神話的だと言えるのです。
また、『ノートル=ダム・ド・パリ』は再話(リメイク)や編集(アレンジメント)に耐えるという意味においても神話的と言うことができます。ギリシャ神話、日本神話は、アレンジャーの数だけ変奏・再話が許されますが、それでいて、「おおまかなストーリー」に変更が加えられるわけではありません。『ノートル=ダム・ド・パリ』も映画化やミュージカル化に際しては細部は無限にバリエーションが加えられますが、根幹に変化があるわけではないのです。
では、なにゆえにこうしたことが起こるのでしょうか?
それは、『ノートル=ダム・ド・パリ』が、ギリシャ神話や日本神話などと同じく、複数の(というよりも無数の)作者の声によって語られているからです。といっても、ユゴーの「ほかに」複数の語り手がいるという意味ではありません。ユゴーの「中に」複数の語り手が存在しているということなのです。
しからば、ユゴーの「中に」存在している複数の語り手とはいったいだれなのでしょうか?
それはさきほど指摘したように、ユゴーの中に互いに相矛盾しながら共存している声たち、集団的無意識の古層から現れてくる複数の声たちです。父方からの共和主義的、平等主義的な声もあり、母方からの、王党派的で自主独立的な声もありますが、どちらも、集団的無意識の古層から発せられてくる声であることに変わりはありません。
本質的に霊媒体質であるユゴーは、ホメロスがギリシャの神々の声を聞くことができたように、自分の中に互いに相矛盾したままに存在しているフランスのさまざまな古層の声に耳を傾け、それを言葉として転写するという姿勢を見せているのです。
これは、バフチーン的な表現で言えば、ポリフォニー(多元的な声)ということになります。そう、ユゴーの小説はポリフォニックな構造をもっているからこそ、解釈者に無限の解釈や再話、あるいは変奏を可能にするのです。
この意味において、フロベールの小説を解釈するような姿勢でユゴーの小説を判断することは禁物で、評価の基準を大きく変えなければなりません。ユゴーの小説は、小説分析というよりも、むしろ神話分析の観点から、レヴィ=ストロースの文化人類学的観点から考察されなければならないということなのです。
■『NHK100分de名著 ユゴー ノートル=ダム・ド・パリ』より

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