幸福になるためには趣味を持とう——三つの効用とは
ラッセルは『幸福論』の中で、趣味を持つことが幸福になる方法の一つであると説いています。山口大学国際総合科学部准教授の小川仁志(おがわ・ひとし)さんが、その真意を解説します。
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■趣味を持つことがバランスにつながる
幸福になる方法の一つが、趣味を持つことです。仕事ばかりではだめなのですね。ここはラッセルの『幸福論』の象徴ともいえる部分でしょう。趣味で幸福になれるなんて何だか軽い話だな、という印象を持たれるかもしれません。でも、実はそれが非常に重要だということを論じており、説得力があります。
ラッセルはここで、趣味のことを「私心のない興味」と表現しています。「ある人の生活の主要な活動の範囲外にある興味」「より公平無私な」興味ともいっていますが、例えばある分野の専門家が、自分の仕事に関係のない分野の本を読むことは、私心のない興味だといっています。そうした分野の本は、自分の利益や損得に関係なく純粋に楽しめるものだからです。興味の例としては、ほかにスポーツ観戦、観劇、ゴルフなどを挙げています。
そのうえで、私心のない趣味を持つことには、次の三つの効用があるといいます。一つは気晴らしになるということです。気晴らしができれば、不幸の原因の一つである疲れを取ることができます。ラッセルは、気晴らしには「一晩寝て考えてみる」のと同じ効果があるといいます。第2回で無意識に仕事をさせることの効用を紹介しましたが、それに言及して、「意識下の精神過程が働きうるのは、眠りの中のみではない。そういう精神過程は、人の意識的な心がほかの方向に向けられているときにも、働くことができるのである」と説明しています。仕事で行き詰まっても、いったん中断して趣味を楽しみ、また仕事に戻ったときには意外といい答えが出るかもしれない。このことは、やみくもに一つのことをし続けるのではなく集中力のバランスをとる、と表現してもよいのではないかと思います。
二つ目の効用は、釣り合いの感覚を保つということです。これは主に、仕事とのバランスをとることに関係しています。
私たちは、自分の職業だの、自分の仲間内だの、自分の仕事の種類だのに熱中するあまり、それが人間の活動全体のどんなに微々たる部分でしかないか、また、世界中のどんなにたくさんのものが私たちの仕事にまるで影響されないか、ということをとかく忘れがちである。
自分の仕事にばかりかまけていると、見える世界はだんだん小さなものとなり、「世界の提供するこの壮大なスペクタクル」を味わう機会を失ってしまう。しかし趣味があると、そうした視野狭窄(しやきょうさく)に陥らず、人生においてバランスがとれるとラッセルはいうのです。
■趣味は悲しみを癒す
三つ目の効用は、悲しみを癒すということです。例えば愛していた人が死んでしまったとき、人は悲しみに打ちひしがれます。しかし、ずっと悲しんでいると余計に苦しくなります。そんなとき、何か自分の気持ちを向ける趣味があれば、心のバランスをとることができるでしょう。悲しみ以外のことに気持ちを振り向けることができたら、心は楽になるわけです。そのような趣味があれば、「現在を耐えがたくしているのとは別の連想や感情を思いつかせてくれる静かな場所が、精神のために用意されるだろう」と述べています。
そしてラッセルは次のようにいいます。
私たちの愛情は、すべて死の手にゆだねられているのであって、死は、いつなんどき私たちの愛する人を打ち倒すかもしれない。だから、人生の意義と目的をそっくり偶然の手にゆだねるといった、そんな狭い激しさを私たちの人生に与えるべきではない。
死については多くの哲学者が論じていますが、私は、中でもこのラッセルの言葉が最も説得力があると思っています。いつ訪れるかわからない死という偶然に完敗するのではなく、わずかでも抵抗ができるのであればなぜやらないのだとラッセルはいっている。この姿勢は非常に真摯(しんし)ですし、また実用的でもあると思うからです。結局、悲しみも気持ちの問題なのです。悲しみの総量のうちいくらかを別のところに振り向けることができるのであれば、実際に悲しみは和らぎます。ですから、愛する人が亡くなったときに趣味に気持ちを振り向けることは、不謹慎なことにはならないと思うのです。
このように、ラッセルは趣味というものを、私たちが考えている以上に有効で、かつ高尚なものとして論じています。
■『NHK100分de名著 ラッセル 幸福論』より
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■趣味を持つことがバランスにつながる
幸福になる方法の一つが、趣味を持つことです。仕事ばかりではだめなのですね。ここはラッセルの『幸福論』の象徴ともいえる部分でしょう。趣味で幸福になれるなんて何だか軽い話だな、という印象を持たれるかもしれません。でも、実はそれが非常に重要だということを論じており、説得力があります。
ラッセルはここで、趣味のことを「私心のない興味」と表現しています。「ある人の生活の主要な活動の範囲外にある興味」「より公平無私な」興味ともいっていますが、例えばある分野の専門家が、自分の仕事に関係のない分野の本を読むことは、私心のない興味だといっています。そうした分野の本は、自分の利益や損得に関係なく純粋に楽しめるものだからです。興味の例としては、ほかにスポーツ観戦、観劇、ゴルフなどを挙げています。
そのうえで、私心のない趣味を持つことには、次の三つの効用があるといいます。一つは気晴らしになるということです。気晴らしができれば、不幸の原因の一つである疲れを取ることができます。ラッセルは、気晴らしには「一晩寝て考えてみる」のと同じ効果があるといいます。第2回で無意識に仕事をさせることの効用を紹介しましたが、それに言及して、「意識下の精神過程が働きうるのは、眠りの中のみではない。そういう精神過程は、人の意識的な心がほかの方向に向けられているときにも、働くことができるのである」と説明しています。仕事で行き詰まっても、いったん中断して趣味を楽しみ、また仕事に戻ったときには意外といい答えが出るかもしれない。このことは、やみくもに一つのことをし続けるのではなく集中力のバランスをとる、と表現してもよいのではないかと思います。
二つ目の効用は、釣り合いの感覚を保つということです。これは主に、仕事とのバランスをとることに関係しています。
私たちは、自分の職業だの、自分の仲間内だの、自分の仕事の種類だのに熱中するあまり、それが人間の活動全体のどんなに微々たる部分でしかないか、また、世界中のどんなにたくさんのものが私たちの仕事にまるで影響されないか、ということをとかく忘れがちである。
(第十五章 私心のない興味)
自分の仕事にばかりかまけていると、見える世界はだんだん小さなものとなり、「世界の提供するこの壮大なスペクタクル」を味わう機会を失ってしまう。しかし趣味があると、そうした視野狭窄(しやきょうさく)に陥らず、人生においてバランスがとれるとラッセルはいうのです。
■趣味は悲しみを癒す
三つ目の効用は、悲しみを癒すということです。例えば愛していた人が死んでしまったとき、人は悲しみに打ちひしがれます。しかし、ずっと悲しんでいると余計に苦しくなります。そんなとき、何か自分の気持ちを向ける趣味があれば、心のバランスをとることができるでしょう。悲しみ以外のことに気持ちを振り向けることができたら、心は楽になるわけです。そのような趣味があれば、「現在を耐えがたくしているのとは別の連想や感情を思いつかせてくれる静かな場所が、精神のために用意されるだろう」と述べています。
そしてラッセルは次のようにいいます。
私たちの愛情は、すべて死の手にゆだねられているのであって、死は、いつなんどき私たちの愛する人を打ち倒すかもしれない。だから、人生の意義と目的をそっくり偶然の手にゆだねるといった、そんな狭い激しさを私たちの人生に与えるべきではない。
(同前)
死については多くの哲学者が論じていますが、私は、中でもこのラッセルの言葉が最も説得力があると思っています。いつ訪れるかわからない死という偶然に完敗するのではなく、わずかでも抵抗ができるのであればなぜやらないのだとラッセルはいっている。この姿勢は非常に真摯(しんし)ですし、また実用的でもあると思うからです。結局、悲しみも気持ちの問題なのです。悲しみの総量のうちいくらかを別のところに振り向けることができるのであれば、実際に悲しみは和らぎます。ですから、愛する人が亡くなったときに趣味に気持ちを振り向けることは、不謹慎なことにはならないと思うのです。
このように、ラッセルは趣味というものを、私たちが考えている以上に有効で、かつ高尚なものとして論じています。
■『NHK100分de名著 ラッセル 幸福論』より
- 『ラッセル『幸福論』 2017年11月 (100分 de 名著)』
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