明智光秀を討ったのは農民!? 『残念な死に方事典』から見えた「歴史的人物たちの驚愕ラストシーン」

残念な死に方事典
『残念な死に方事典』
小和田 哲男
ワニブックス
1,540円(税込)
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 歴史的人物たちの驚愕ラストシーンをまとめた『残念な死に方事典』(ワニブックス)。織田信長を討ちとった明智光秀は、落ち武者狩りによって惨殺されていたことをご存知だろうか。秀吉一派から逃げる道中で農民の落ち武者狩りに遭い、山野で野垂れ死んだそうだ。本書には他にも、西郷隆盛や源 義経など著名人たちの名がずらり。武士たちの「残念な死に様」に注目していく。

 まず本題に入る前に、監修・小和田哲男氏が綴った「前書き」に注目してほしい。一見「残念な死に方=無様」といったふうに聞こえるが、小和田氏は次のように述べている。

「『残念』という言葉には悔しいとか情けないという意味合いがあるが、生き様が華々しいものでなければそのような心情にはならない。つまり、納得のいかない死に方をした武士ほど、その生き方は非常にドラマティックなものであったといえる」(本書より)

 先述した通り、明智光秀はただの落ち武者狩りに殺された。彼を追っていた秀吉一派ではなく、縁もゆかりもない「ただの農民」に。だがもし光秀がただの従順な従者だったら、同じ最期を遂げても「残念」に思うだろうか。つまり残念な死に方とは、彼らの劇的な生き様の上に成り立っているのだ。

 たとえば扇谷上杉定正の家臣であり、江戸城を作った人物でもある太田道灌もそのひとり。彼は幼少期からズバ抜けた才知に恵まれ、のちに武将としても学者としても数多くの功績を挙げていく。やがて道灌の名は京都にまで知れ渡り、34歳で上洛。さらには30年近くにも及んだ享徳の乱を、ほぼ彼ひとりの力で平定させたという。そんな才気溢れる道灌だが、最期はじつにあっけない。

「文明十八年七月。道灌は招かれた扇谷上杉家の別館にて促されるまま、風呂に浸かった。『ああ、いい湯よのう』と、極楽気分で入浴から上がった直後のことだ。

『覚悟せい、太田の!』
刺客が湯殿に押し入ってきて、道灌は一太刀のもとに斬り捨てられる」(本書より)

 要するに彼の卓越した実力が妬まれ、長年仕えてきた主君に裏切られたのだ。その際に道灌が放った言葉が「当方滅亡」。「家宰の己を斬る主家など、すぐに滅亡するのは目に見えている」という意味合いで、彼の予言通り扇谷上杉家は滅亡の一途を辿ることに。まさに因果応報の結末ではあるものの、果たして彼の死に意味はあったのか。

 「因果応報」といえば、戦国武将・龍造寺隆信もロクな死に方をしていない。最盛期は肥前、筑前、筑後と九州の一大勢力となったそうだが、その性格は冷酷で残忍。味方であっても疑わしき者は容赦なく処刑していたらしい。そんな彼の死に方は「討ち死に」。しかも家臣に置いてけぼりにされたゆえの惨死である。

 時は天正12年3月、島津連合軍を相手とする沖田畷の戦いでの出来事。戦いははじめ隆信一派の優勢かに思えたが、途中で戦局が一気に変わった。

「大軍の強みを封じられた奇襲攻撃になす術なく、混乱に陥った龍造寺の兵は総崩れとなる。隆信の輿の担ぎ手もまた皆が逃げ出していき、『おい、こら、待て。お前ら、どこへ行く!』と慌てて叫ぶも、家臣は誰一人として耳を貸すことなく姿を消していく。戦場のぬかるみへ輿とともに残された隆信は、あっという間に敵兵に囲まれてしまう。

『ズバッ!』。最後はあっけなく首を斬られ、絶命してしまった」(本書より)

 この時、馬に乗れないほど肥満化していた隆信。ゆえに輿に揺られながらの出陣となったわけだが、まさかその輿で最期を迎えるとは夢にも思わなかっただろう。さらに義弟の鍋島直茂から「島津を侮るな」と釘を差されたにもかかわらず、隆信は全く聞き入れなかった。あの時、助言をしっかり聞き入れていれば、隆信にもっと人望があれば、このような最期は免れたかもしれない。

 また、中国地方の三大謀将を祖父に持つ、大大名・尼子晴久もなかなか予想外の死に方をしている。それは毛利家に惨敗した翌年、彼らの猛攻によって厳しい状況に追い込まれていた時のこと。祖父に甘やかされて育った晴久は逆境に弱く、ひどく心を病んでいた。そのため神社に奉納して御家安泰を願っていたそうだが、ある日悲劇は起きる。

「そうして迎えた師走の夜。
『よしっ、ここは冷水を浴びて月にお祈りしよう』
晴久は月に勝利を託すように、桶で冷水を汲んでは全身に浴びはじめる。『ザッパーン。ザッパーン。ザッパーン』と、今後の行く末が心配でありながら、もはや神頼みの祈祷に縋るしかない晴久に、突然の不幸が襲いかかったのは直後のこと。

『ハ、ハウッゥーッ』
極寒の夜、凍るような冷水を浴び続けたため、胸を押さえて倒れてしまった。

翌朝の早朝。
『ご臨終です』
永禄三年十二月二十四日、晴久は急性心筋梗塞で死亡したといわれている」(本書より)

 たとえ天下を取ろうが多大な功績を上げようが、皆等しく「一寸先は闇」。いつどんな結末を迎えるとも分からないのであれば、せめて今日一日を精一杯生きたい。武士たちの死に際を見ると、そう思えて仕方がないのだ。

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