それぞれの生きるスピードと向かう場所へ 絲山秋子『夢も見ずに眠った。』

夢も見ずに眠った。
『夢も見ずに眠った。』
絲山秋子
河出書房新社
1,890円(税込)
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 会ったこともない人を信用できる人だと思ったことはあるだろうか。普通の人間関係ではそれはあまり起こりえない事柄だ。しかし、創作や表現をしている人や、国境を越えて私的なことではなく公共の利益のために働いている人だったり、スポーツ選手の人たちにはそういうことを感じることがあなたにはないだろうか。一方的にこちらは知っている。しかし、相手はこちらのことなど知る由もない。だけども、「わたし」はその人の発言や行動を知っていて、勝手に信用にたる人だと思う、というようなことが。
 わたしは小説を読むのが好きなので、書き手の中にそういう人は何人かいる。小説にしてもエッセイにしても活字になるものは、書き手から顔の見えない不特定多数の読み手への語りだったり、あるいはラブレターや自身の思想を物語や読みやすいものにアウトプットして届けているものだと思っている。だからこそ、読み手はその中にあるものを感じて、この人は信用できると思うのではないだろうか。わたしにとって信用のおける書き手の一人だと勝手に思っているのが、小説家の絲山秋子さんだ。

 絲山さんの作品で個人的に大好きなのは、『海の仙人』『末裔』なのだが、やはり絲山作品を読んでいない人には『逃亡くそたわけ』と『離陸』をオススメしたい。わたしがスタッフをしている『monokaki』では以前に、文筆家・編集者の仲俣暁生さん連載『平成小説クロニクル』で「第五回 絲山秋子と吉田修一 地方を舞台とした「アンチ東京小説」のリアリティ」を執筆してもらい、記事を公開している。
https://monokaki.everystar.jp/column/heisei/1149/

 ここで書かれているのは、絲山秋子さんや吉田修一さんという二人の小説家は「恋愛小説」のその先を描いているということ、そして、損得勘定を越えて動いてしまう人間の愚かしさや狂おしさ、切なさがあるということだ。そこにはやはり愛おしさも含まれているだろう。今回は『逃亡くそたわけ』と『離陸』の流れにあるような、「恋愛小説」のさらにその先を描いた新作『夢も見ずに踊った。』について紹介したい。

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夫の高之を熊谷に残し、札幌へ単身赴任を決めた沙和子。しかし、久々に一緒に過ごそうと落ち合った大津で、再会した夫は鬱の兆候を示していた。高之を心配し治療に専念するよう諭す沙和子だったが、別れて暮らすふたりは次第にすれ違っていき......。ともに歩いた岡山や琵琶湖、お台場や佃島の風景と、かつて高之が訪れた行田や盛岡、遠野の肌合い。そして物語は函館、青梅、横浜、奥出雲――土地の「物語」に導かれたふたりの人生を描く傑作長編。(単行本帯裏より)
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主人公夫婦の家は熊谷。単身で住んだのは札幌、青梅など。 旅をした場所は岡山市、笠岡市、倉敷市、滋賀県全域、川島町(埼玉)、盛岡市、遠野市、東京23区、函館市、江差町、青梅市、奥多摩町、横浜市、松江市、奥出雲町などです。(著者の絲山さんのツイートより)
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 『夢も見ずに踊った。』は夫婦であるふたりの男女の二十五年という長い時間を描いた小説だ。そして、絲山さんのツイートにもあるように、様々な場所や地域が出てくる。
 ふたりで行くこともあるし、それぞれがひとりで赴くこともあるし、途中から個別に違う場所へ向かうこともある。夫の高之と妻の沙和子は就職氷河期に大学を卒業した大学生であり、いわゆるロストジェネレーションと呼ばれる世代である。わたしもそのロスジェネ最後尾にいたので彼らの感覚はものすごくわかるし、共感するところが大きかった。

 就職氷河期というのは1993年から2005年と定義されている。現在の社会で考えれば中間管理職になっている層がそこにあたるのだが、そもそも就職が困難でありフリーターや派遣社員になるしかなかった人も多い。そのまま年齢が上がって就職ができなかったり、そのままの雇用形態で働いている人も多く存在しているというのが現状だ。
 この数年で団塊の世代が定年になって抜けていくという現実があり、近年の大学卒業者の内定率が高くなったのは、羊頭狗肉な「アベノミクス」を吹聴している彼らの政治的な手腕で景気がよくなったからではないことがよくわかる。下の世代からは就職もできなかった人と見下されたり、卑下されてしまうような世代がロスジェネであるということも事実としてある。
 会社組織におけるポッカリと空洞のようになってしまっているのがこのロスジェネ世代であり、上と下の世代(わかりやすく言えばインターネットが登場する前のアナログな時代が若い頃にあった世代と生まれた時にはインターネットも携帯やスマホも当たり前のものとしてあった世代)それぞれの中間にいるからこそ、本来であれば、彼らを繋げられるはずだったこの世代が宙ぶらりんになってしまっているように個人的には感じている。もしかすると、その代りとしてインターネットがあるのかもしれない。しかし、検索だけでは人は繋がらないし、どんどん分断は進んでいくだけなのが現実の社会である。

 ロスジェネにはかつて社会に対しての「怒り」があったのだが、例えば『「丸山眞男」をひっぱたきたい31歳フリーター。希望は、戦争。』なんかはその代表的だろう。しかし、「怒り」のエネルギーは長期的には持続せず、時代の変化もあるのでどうしても「諦め」に変わっていってしまった。入れ替え可能なフリーターや派遣社員として働いて体調や精神を壊してしまえば、もう金銭的にも精神的も立て直すことはなかなか難しいものになってしまっている。
 ゼロ年代初頭のロスジェネのモラトリアムを描いた作品では、漫画では浅野いにお著『ソラニン』、映画では行定勲監督『ロックンロールミシン』、テレビドラマでは岡田惠和脚本『夢のカリフォルニア』などがあり、当時の彼らと時代の雰囲気をうまく描いていた。そして、そのロスジェネに完全にとどめを刺したのがリーマン・ショックだったと言えるだろう。
 彼らより上の世代はこのままなんとか逃げ切ろうとしている。正社員経験がなく、フリーターや派遣社員が多く、このままどこにもいけない世代がロスジェネだろう。それより下の世代はリーマン・ショック以降の世界的な不況と日本の構造改革の失敗、ホリエモンの逮捕劇などもあり、自由な働き方やベンチャーをやろうという意欲は一部を除いて削がれており、年功序列で終身雇用を望む保守的人がかなり増えて、昭和の雇用形態を望むような先祖返りのようになっている。それは平成まるごとの不況とグローバリズムによる格差が明確に出てきているために、どうしても安定を望むという作用が出てきているのだろう。だが、その昭和的な雇用形態は「中流」という幻想を多くの人がイメージできるような豊かな時代だったからこそであり、その「中流」という幻想を多くの人がイメージできない時代では、実際のところ難しいものになっている。
 これらは小説にはあまり関係ないように感じられるかもしれないが、この物語の主人公のふたりのバックグランドはこういう背景や世代的な感覚がある。だからこそ、沙和子は高之を実家の熊谷に残して、札幌に単身赴任を決めて仕事をしっかりやろうとしたはずだし、彼もそのことを尊重しないといけないと思い、義実家で妻の両親とうまくやっていた。

 車でドライブする際にどこを迂回して目的地まで行くかというような小さな選択がたくさん起きる日常の中で、次第に疲れていきやがて心を病んでしまうことは誰にだって充分に起こりうる。また、彼らのように違う場所で生活していくということは、気持ちが当然相手にあったとしても、どこかですれ違ってしまう。そして、言いたいのに言えない言葉や思いだったり、触れたいのに触れられないその寂しさがふたりだけの関係性における決定的な判断を下すことにも繋がっていくだろう。
 微細なこころの襞が各地の風景や食べ物や、ドライブで見えるものや体験すること、鉄道の乗り換えやバスの待ち時間だったり、それぞれの名所やふたりが興味ある建物や名所と共に描かれながらこの物語はゆっくりだが確かに進行していく。
 このように書くと、なんだロスジェネの中年カップルの労働や生活に関する小説なら自分には関係ないから読まなくてもいいや、って人もいるかもしれない。しかし、考えてみてほしい。今というあまりにも先の見えない時代にモデルとなるような先駆者はいるだろうかということを。

 ロスジェネという世代が社会に出た時にはすでにバブルは崩壊して「失われた20年」の只中にあった。ミレニアムを迎えて新世紀であるゼロ年代に入っていき、インターネットだけではなく、スマホも当たり前のものになった。
 雇用形態と時代の変化は当然ながら男女における結婚や付き合い、そして出産や子育てにも大きな影響を与えた。『夢も見ずに踊った。』の主人公である高之と沙和子は、上の世代のような夫婦関係や家庭や社会人としてのモデルがいない世代である。当たり前にあったものが崩壊しているのだからモデルなど存在していない。だからこそ、ふたりの関係性は新しい男女の関係性のヒントにもなり、性別を越えて人と人が長い時間をかけてどうやって信頼関係を築くことができるのかということを知れるきっかけになるはずだ。
 違う「個」同士が時には寄り添い、時には離れていく。それぞれの生きるスピードは当然ながら違うから。一緒にいれる時もあれば、いれない時もある。そして、一緒だったはずの向かう方向だって変わっていくかもしれない。
 人生という限られた時間の中で、どこにいくのか、誰といるのか、なにをするのか、それらを決めるのは自分だ。大切な誰かといる時の自分と、大切な誰かといない時の自分の生きるスピードは違う。別れた人といつか会うこともあるし、未知の出会いもあるかもしれない、それはどんな風に生きるかという選択の中で起こるということを、高之と沙和子のふたりの関係性と人生の選択から教えてもらえる、そんな信頼できる一冊だった。

文/碇本学(Twitter : @mamaview

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