映画業界で活躍するすごい映画人に、「仕事としての映画」について語っていただくコーナー。part1に引き続き「日活」の宣伝プロデューサー、大場渉太さんの仕事インタビューをお届けします。
3年で辞めようと思っていたけど!
「映画を作りたい」という思いで始めたF2(フリーのディレクター集団)でのアルバイトでは、ゲームの攻略ビデオ制作のアシスタント、ミュージックビデオ制作の手伝い、フリーペーパーの編集など様々な仕事をこなしていたという大場さん。就職活動もせずにアルバイト生活を続けていましたが、卒業1年後、映画宣伝会社P2に就職することになりました。
「映画を作りたいなら、もっと裏方の勉強をしてもいいんじゃないかと、F2の社長が紹介してくれたんです。しかも、僕の愛して病まない映画祭"東京国際ファンタスティック映画祭(以下、東京ファンタ)"の宣伝をやっている会社と聞きましたから、喜んで会いに行きました。で、面接してもらった結果"声がデカいから雇う"と、P2で宣伝の仕事をやらせてもらうことに」
とはいえ映画作りへの思いが強かった大場さん、3年くらい働いてひと通り裏方を知ったあとは制作に戻るつもりだったのだとか。しかし実際に働いてみると、3年後どころではなく、すぐにでも辞めたくなってしまったそうです。
「まず会社に行くと、机にドンと変な名簿が置いてあるんです。今やっている映画は『バグダッド・カフェ』と『ミクロキッズ』だから、媒体に売り込めと。宣伝のせの字も知らなかったので、先輩たちにどうすればいいのか聞くんですけど、そんなもん自分で考えろと誰も教えてくれませんでした。で、とりあえず名簿に書かれている番号にオドオドしながら電話すると、全く取り合ってくれないんです......」
さらに、会社にいれば「パブリシティは会社にいるな! 昼間はずっと売り込みに出てなきゃいけないんだ! とっとと出てけ!」と怒られ、外に出たはいいけど誰も会ってくれない。途方に暮れて駅のホームにぼーっと座っていたり、トイレでぼーっとしていたり。そんな日々が半年くらい続いたそうです。
映画より人間が面白くなってきた!
ところで「パブリシストあるある」として挙げられるのが、電話で会う約束を取り付けたはずの媒体担当者が不在(もしくは居留守)という"ぶっち"率がもの凄く高いこと。もちろん大場さんも初めはぶっちされまくっていたわけですが、その忌々しい流れにも徐々に変化の兆しが見えてきました。
「資料と名刺をめげずに半年くらい置き続けていると、向こうも人間なんでしょうね。ようやく会ってくれるんですよ。でも会えたとはいえ、まともに聞いてくれない人がほとんど。なぜなら、そういう宣伝マンがいっぱいいますから。けれどそんななかで、何人かにひとりは話を聞いてくれる人がいて、映画の話半分に趣味の話になったりするんです。なかには趣味が合う人もいたり。そうするうちに、映画の宣伝というよりも、人の方に興味が湧いていったんです。それが、宣伝の仕事が面白くなってきたきっかけかな」
また、媒体担当者のみならず、同じような境遇にあった他の映画会社の人との繋がりも生まれ始めていました。
「会社の中でも居場所がなくて、売り込みに行ってもぶっちされてひとりぼっち。そんな時に周りを見渡すと、映画会社の他の宣伝マンが同じように来て同じように途方に暮れている奴がいるんです。おや、もしかしてお宅も? じゃあ、お茶でもしましょうかって(笑)。他の映画会社の同期の人たち、そして一部の媒体の担当者さんとの付き合いが始まっていきました」
映画業界には、"何かが欠けている人"が集まっている!?
「確かに映画は好きだけど、僕は人が好きなんだって思ったのは、映画業界にいる人たちが面白いからかもしれません。この世界って、普通の会社と違ってそこらじゅうに変態がいっぱいいるんです。セックスのことしか考えていないおっさんとか、酒のことしか考えていないおばさん、酒を飲んで暴れるお姉さんであったり。何かが欠けている人たちがたくさんいる。でも一緒に飲んでみると、すごく純粋な夢を持っていたりして。そういう人たちに会える世界ってそうはないなと思いました。それがP2での宣伝の仕事を長く続けられた理由だと思います」
入社して3年が経過した頃には、宣伝担当をしていた東京ファンタスティック映画祭を通して映画業界での人脈が広がり、パブリシティの仕事もだいぶわかってきたという大場さん。しかし、"俺様"的な立場を確立するようになるにつれ、徐々に頭をもたげたのが「こんなんでいいのかな」という気持ち。入社9年目で、フリーになることを決意しました。
「これまで知り合った人と、もっといろんなことをやりたかったから。それと、会社を辞めてフラットな立場になった時に、どこまでみんなと同じように付き合えるかも試してみたかった。僕個人でどれだけやれるのかを」
映画祭のディレクターという仕事
さてここで、大場さんがP2時代からずっと担当していた、東京国際ファンタスティック映画祭(現在休止中)とゆうばり国際ファンタスティック映画祭について触れつつ、映画祭の魅力についても知ってみたいと思います。
「東京ファンタは、個人的に第1回の時から毎年欠かさず行っていた、とても思い入れのある映画祭です。あまり日本ではフォーカスされないB級、C級作品に光を当てていて、そこにみんなが集まってわいわい騒ぐ。そういう映画祭特有の魅力が、当時のファンタにはあったんです。フランスのアボリアッツという町が町おこしのために始め、"スキーと映画のリゾート型映画祭"として成功していた"アボリアッツ・ファンタスティック映画祭"がモデルになっていました」
ちなみに大場さんが立ち上げから携わっていた「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」は、東京ファンタのリゾート版として始まったもの。『キネマ旬報』を創刊号からすべて揃えているほどの映画好きだった故・中田鉄治夕張市長が、東京ファンタのモデルになった「アボリアッツ・ファンタスティック映画祭」を夕張でも!と、当時の東京ファンタの事務局に問い合わせてきたのが始まりだそうです。
「映画を楽しませたい人と、楽しみたい人とが垣根を越えて楽しみ合えたのが、ゆうばりや東京ファンタでした。でも、東京ファンタはスポンサーがいなくなっちゃって今は休止中。ゆうばりは町が破綻しちゃって今は有志でやっています。規模こそ小さくなっていますが、それでも愛すべき映画祭だと思っています」
日本の映画祭に課題あり
「日本の映画祭は、基本縮小です。というか小さいんです、今は。お金があった時代にはどこも華やかにやっていましたが、やっぱり文化事業だとどうしても限界がくる。だんだんお金がつかなくなってしまって、小さくなるか、辞めちゃうか。その背景にあるのが、国が映画を基本的には支援していないこと。韓国やフランスは、国が映画をひとつの文化産業として後押ししているから、お金も出すし、相談にも乗ってくれます。日本にはそういうものがないんです」
と話す大場さん。それでも愛する東京ファンタ休止後は、毎年9月に開催される「したまちコメディ映画祭in台東」のチーフ・ディレクターをしています。
「東京ファンタが休止する前の4年間ほど、いとうせいこうさんに手伝ってもらっていたんです。でも、いとうさんがようやく東京ファンタの面白さをわかってきた時に、スポンサーがいなくなって休止になっちゃった。そんな時に"浅草で映画祭をやったら盛り上がるかな?"って聞かれました。いとうさんは浅草在住で、台東区の観光のご意見番のようなものもやられていましたから。浅草はエンターテイメントの発祥の地だし、いろんな芸人も生んだ土地。コメディに焦点を当てた映画祭を前からやりたかったので、そのことをいとうさんに話したら"じゃ、やろう"って。今年で5年目です」
フリーから日活へ、日活からフリーへ、そしてまた日活へ
現在は、日活で宣伝プロデューサーの仕事をする傍ら、ひとり事業部(?)としてしたまちコメディ映画祭を運営している大場さん。実は日活に入ったのは2度目だそうで。
「P2を辞めたあともフリーでゆうばり国際ファンタスティック映画祭の運営に携わっていたのですが、映画祭に日活の人が来てくれまして。で、"今度うちでこういう映画があるんだけど宣伝やる?"と、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』の話をされました。ずっと気になっていた映画だったのでふたつ返事でやりたい!と言ったら、じゃあ社員になってよって......。フリーでやりたいと言っても、社員じゃないとやらせないからって」
フリーにやりがいは感じていたものの、それまで大きな会社では働いたことがなかったため、良い経験になるだろうと日活に入社。約束通りブエナ・ビスタの宣伝担当をやらせてもらったものの、会社が肌に合わず2年で退社してしまったそう。
「P2や映画祭で知り合った人たちと、もっと面白いことができるんじゃないかという気持ちがどうしても強かったんです。それで、日活に呼んでくれた方に会って辞めることを伝えたら、"僕の気持ちはこれです"と紙を渡されました。開いたらひと言"無念"と書いてありました」
そうして再びフリーに戻り5年の月日が過ぎた頃、なんと日活から「また戻ってこないか」とラブコールが。
「初めは、嫌で辞めたのに出戻りなんてあり得ないって思っていました。でも、もともと日活という会社は好きなんです。歴史があって、昔はいろんなことにチャレンジしてた。宍戸錠や石原裕次郎で無国籍アクションを作ってみたり、東映・東宝・松竹などの大手にはできないことを、日活はインディペンデントでやっていたんです。そうして会社が傾けば、ロマンポルノを作ってまた一時代を築く。そのなんともいえないど根性さと、何をやってでものし上がってやるぜ!精神が、大好きでした。ただ、僕がいた時の日活は違っていたんです。倒産したあとだったので、みんなあまり波風を立てたがらない。当時はナムコが出資していたんですが、ナムコの言うことが絶対で、好きなことができませんでした。その雰囲気が嫌いでした。昔に得た糧を守っていくだけのような会社にはいたくなかったんです」
でも、大場さんが2度目のラブコールを受けた時、日活は変化し始めていました。
「声をかけてもらった時期は、ちょうどナムコから別の会社へ売りに出すという時期でした。初めはインデックス、そのあと日テレが親会社になり、社長も大映から来た佐藤直樹という人に変わって、他の映画会社からいろんな人が日活に入り込んできた時期でした。それが僕にとっても面白かった。新たな日活を作れる可能性があるかもしれない!と」
そうして日活に戻って、現在7年目。次回は、いよいよ宣伝プロデューサーとしての大場さんの仕事に迫りたいと思います!