熱中すると幸福になれる
ラッセルの『幸福論』第二部「幸福をもたらすもの」から、幸福を獲得するための具体的方法について山口大学国際総合科学部准教授の小川仁志(おがわ・ひとし)さんと共に読み解いていきます。
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今回は特に、バランスというキーワードに着目したいと思います。というのも、ラッセルは色々な意味でのバランスこそが幸福をもたらすと考えているように思われるからです。また、ここで紹介するのは、第一部で論じているように、必ずしも不幸な人がその原因を取り除くことで幸福になれるというものだけではなく、普通の人がより幸福になるための方法も含まれています。不幸な人だけが幸福になるわけではないからです。ラッセルの意図もそこにあるのだと思います。
ラッセルは、幸福になるための具体的な方法を提示する前に、総論のような形で、第十章「幸福はそれでも可能か」において予備的考察を行っています。ここで論じられているのは、一言でいうなら、何かに熱中することの意義でしょう。
その具体例として、達成の喜びを味わうために何かに熱中できると幸せになれる、ということを書いています。ラッセルの家の庭師は「年がら年じゅう、ウサギと闘っていて、ウサギのことをまるでロンドン警視庁がボルシェヴィキのことを話すように話す」そうです。ウサギに負けない悪知恵を以て彼らを駆除しなければと息巻いており、その熱意があるからこそ、「七十の坂をずっと越えているのに、終日働き、丘陵地を十六マイル、自転車で仕事場へ行き帰りしている。しかし、喜びの泉は涸れることがない」とラッセルは述べています。
また、科学者は幸福だともいっています。科学者は自分の持っている能力を最大限に使えて、しかもその仕事が周りから評価されるからです。芸術家は必ずしもそうではありません。芸術の場合は人から理解されないことが多いからです。ラッセルのこの洞察にもまた、彼自身の経験が影響しているに違いありません。ラッセルは数学をやっていたころは科学者に近かったわけですが、そのときは『プリンキピア・マテマティカ』をはじめ、高い評価を受けていました。そのすごさを説明するのはかなりの難題なのですが、アラン・ウッド著『バートランド・ラッセル─情熱の懐疑家』(みすず書房)によると、『プリンキピア・マテマティカ』の意義は、「数学から神秘をとり去った」点にあるといいます。
つまり、数学にはどこか神秘主義的な要素が存在するのですが、論理の言葉でそれらを説明することによって、ラッセルはそうした問題を解消してしまったのです。その意味では、『幸福論』でもその他の政治に関する論考でも同じなのですが、ラッセルという人は、神秘的であったり、非合理的なものを解明することに一貫して熱意を注いできたといえるのかもしれません。
ところが、数字と異なり合理性に欠ける人間という存在を対象に哲学をしたり、エッセーを書き始めると、皆が皆それを同じように評価してくれるわけではありません。先ほどの科学者は幸福だが芸術家はそうでもないという言葉には、彼自身の経験した悔しさがにじみ出ているように思えてなりません。
さらに、困難だけれど実現不可能ではないと思われる目的を追求できると幸福だ、ということも指摘し、インドや中国、日本の若者を例に挙げています。当時これらの国々は、ヨーロッパから見れば政治や教育など多くの分野で自由主義や民主主義の制度化が遅れていました。そうした国々の若者たちは、世の中を変えようと熱くなっている。その状況は幸せなのではないか。ラッセルは自身が出会った中国の青年のことを語ります。
忘れもしない、一人の中国人の青年が私の学校を訪れたことがあった。彼は帰国して、同じような学校を中国の反動的な地域に設立しようとしていた。彼は、その結果、首をはねられることになるのを覚悟していた。それでいて、ただうらやましいとしか言えないような静謐(せいひつ)な幸福に浸っていた。
しかし、こうした野心的な幸福だけが唯一の幸福であるわけではないとして、何か特技を伸ばせる人なら誰でも仕事の喜びが得られるので、幸福になれる、と続けます。周りを圧倒してやろうなどと考えず、自分の技術を生かすことに満足が得られればの話だと断ったうえで、幼少期に両足に不自由を抱えたもののバラの胴枯病に関する五巻の本を書いた人や、貝類の研究者、世界一の植字の名人といった知人たちを例に挙げます。こうした人たちが幸福になれたのは、「自分の技術を行使することに生き生きとした愉悦をおぼえたから」であると分析します。
またラッセルは、主義主張を信じることは幸福の源泉なのだと論じます。これは政治的なものだけでなく、もっとささやかな信念のことも含むといいます。ラッセルの場合は、特にこの『幸福論』執筆の後、不屈の精神をもって平和活動に邁進していきますので、主義主張が彼に幸福をもたらしていたことは間違いないでしょう。
■『NHK100分de名著 ラッセル 幸福論』より
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今回は特に、バランスというキーワードに着目したいと思います。というのも、ラッセルは色々な意味でのバランスこそが幸福をもたらすと考えているように思われるからです。また、ここで紹介するのは、第一部で論じているように、必ずしも不幸な人がその原因を取り除くことで幸福になれるというものだけではなく、普通の人がより幸福になるための方法も含まれています。不幸な人だけが幸福になるわけではないからです。ラッセルの意図もそこにあるのだと思います。
ラッセルは、幸福になるための具体的な方法を提示する前に、総論のような形で、第十章「幸福はそれでも可能か」において予備的考察を行っています。ここで論じられているのは、一言でいうなら、何かに熱中することの意義でしょう。
その具体例として、達成の喜びを味わうために何かに熱中できると幸せになれる、ということを書いています。ラッセルの家の庭師は「年がら年じゅう、ウサギと闘っていて、ウサギのことをまるでロンドン警視庁がボルシェヴィキのことを話すように話す」そうです。ウサギに負けない悪知恵を以て彼らを駆除しなければと息巻いており、その熱意があるからこそ、「七十の坂をずっと越えているのに、終日働き、丘陵地を十六マイル、自転車で仕事場へ行き帰りしている。しかし、喜びの泉は涸れることがない」とラッセルは述べています。
また、科学者は幸福だともいっています。科学者は自分の持っている能力を最大限に使えて、しかもその仕事が周りから評価されるからです。芸術家は必ずしもそうではありません。芸術の場合は人から理解されないことが多いからです。ラッセルのこの洞察にもまた、彼自身の経験が影響しているに違いありません。ラッセルは数学をやっていたころは科学者に近かったわけですが、そのときは『プリンキピア・マテマティカ』をはじめ、高い評価を受けていました。そのすごさを説明するのはかなりの難題なのですが、アラン・ウッド著『バートランド・ラッセル─情熱の懐疑家』(みすず書房)によると、『プリンキピア・マテマティカ』の意義は、「数学から神秘をとり去った」点にあるといいます。
つまり、数学にはどこか神秘主義的な要素が存在するのですが、論理の言葉でそれらを説明することによって、ラッセルはそうした問題を解消してしまったのです。その意味では、『幸福論』でもその他の政治に関する論考でも同じなのですが、ラッセルという人は、神秘的であったり、非合理的なものを解明することに一貫して熱意を注いできたといえるのかもしれません。
ところが、数字と異なり合理性に欠ける人間という存在を対象に哲学をしたり、エッセーを書き始めると、皆が皆それを同じように評価してくれるわけではありません。先ほどの科学者は幸福だが芸術家はそうでもないという言葉には、彼自身の経験した悔しさがにじみ出ているように思えてなりません。
さらに、困難だけれど実現不可能ではないと思われる目的を追求できると幸福だ、ということも指摘し、インドや中国、日本の若者を例に挙げています。当時これらの国々は、ヨーロッパから見れば政治や教育など多くの分野で自由主義や民主主義の制度化が遅れていました。そうした国々の若者たちは、世の中を変えようと熱くなっている。その状況は幸せなのではないか。ラッセルは自身が出会った中国の青年のことを語ります。
忘れもしない、一人の中国人の青年が私の学校を訪れたことがあった。彼は帰国して、同じような学校を中国の反動的な地域に設立しようとしていた。彼は、その結果、首をはねられることになるのを覚悟していた。それでいて、ただうらやましいとしか言えないような静謐(せいひつ)な幸福に浸っていた。
(第十章 幸福はそれでも可能か)
しかし、こうした野心的な幸福だけが唯一の幸福であるわけではないとして、何か特技を伸ばせる人なら誰でも仕事の喜びが得られるので、幸福になれる、と続けます。周りを圧倒してやろうなどと考えず、自分の技術を生かすことに満足が得られればの話だと断ったうえで、幼少期に両足に不自由を抱えたもののバラの胴枯病に関する五巻の本を書いた人や、貝類の研究者、世界一の植字の名人といった知人たちを例に挙げます。こうした人たちが幸福になれたのは、「自分の技術を行使することに生き生きとした愉悦をおぼえたから」であると分析します。
またラッセルは、主義主張を信じることは幸福の源泉なのだと論じます。これは政治的なものだけでなく、もっとささやかな信念のことも含むといいます。ラッセルの場合は、特にこの『幸福論』執筆の後、不屈の精神をもって平和活動に邁進していきますので、主義主張が彼に幸福をもたらしていたことは間違いないでしょう。
■『NHK100分de名著 ラッセル 幸福論』より
- 『ラッセル『幸福論』 2017年11月 (100分 de 名著)』
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