スタンダリアンから戦争捕虜、そして小説家へ

1909年に生まれ、1988年に79歳で亡くなった作家大岡昇平(おおおか・しょうへい)。その生い立ちを、作家・法政大学教授の島田雅彦(しまだ・まさひこ)さんと共に辿ります。

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■スタンダリアンから小説家へ

大岡昇平は、1909(明治42)年の生まれです。亡くなったのは1988(昭和63)年12月25日ですから、あと2週間ほどで昭和が終わるという時期。ちなみに昭和天皇は1901年生まれですから、大岡より8歳年上です。
小説家・大岡昇平の誕生について考えるところから始めましょう。東京市牛込区(現、新宿区)新小川町に生まれ、3歳のときに現在の南青山付近に転居し、渋谷第一尋常高等小学校に通いましたから、まだ渋谷で小鮒が釣れた時代を知っていた世代です。先祖はもとは農民だそうですが、株で成功した裕福な家庭の出身なので新興ブルジョアのカテゴリーに入ります。明治以降は、新興ブルジョアと労働者が都市生活者の中核をなしますが、大岡昇平はマルクス主義運動や反戦運動とも一線を画し、どちらかといえば戦前の保守に近い政治スタンスだったでしょう。中学から通った青山学院はメソジスト派のミッションスクールですから、キリスト教や海外文学の影響を受けやすい場所にいたのでしょう。1925(大正14)年、16歳で成城第二中学に編入し、成城高等学校在学中には、アテネ・フランセで、また小林秀雄からもフランス語を学んだようです。同じころ、詩人の中原中也とも知己(ちき)となりました。
1929(昭和4)年、京都帝国大学に進学。フランス文学を学ぶ大岡が、スタンダール研究に向かったのは王道でした。1933年以降、翻訳を手掛けますが、日本が戦争に向かっていくプロセスと、彼がスタンダールへのめりこむ時期は並行しています。これは泥沼化する戦争からの逃避だったと見ていいでしょう。このひねくれは『野火』の主人公・田村一等兵のキャラクターと重なります。
1928年には三・一五事件、翌年には四・一六事件という、ふたつの共産党員への大弾圧が起こり、33年になると共産党幹部たちの大量転向が発生します。つまり本格的な戦時体制に向かう途上の、もはや反戦・反軍運動が完璧に潰されたあとの時代に、大岡はスタンダリアンだったわけです。とはいえ、スタンダール研究で食うことはできないと悟った大岡は、34年には国民新聞社(35年に退社)、38年には帝国酸素(43年に退社)の社員になる選択をします。しかし、その戦時下でも翻訳の仕事は精力的でした。39年にアランの『スタンダアル』、41年にスタンダールの『ハイドン』、44年にはバルザックの『スタンダール論』と、多くの研究書の翻訳を手がけています。1941年の日米開戦前後からは洋書を読むだけで非国民の疑いがかけられましたが、大岡は、「フランス語だから」と言い逃れたりもしたらしい。当時のフランスはナチス・ドイツの傀儡(かいらい)政権であるヴィシー政権の支配下にありましたから、日本にとっては友好国だというわけです。
出征は1944年7月、福岡の門司(もじ)から。35歳での召集で、船でフィリピン戦線に向かい、ミンドロ島サンホセで軍務に就きます。配属された部隊が、比島派遣威第一〇六七二部隊西矢隊(固有名独立歩兵第三五九大隊臨時歩兵第一中隊)で、実務としては暗号手でした(「暗号手」という、当時の体験に基づいた短篇も書いています)。
44年12月には米軍がミンドロ島に上陸、戦局はより厳しさを増し、北方山中に退避します。翌45年1月にはマラリアに罹(かか)り、米軍の攻撃を受けて撤退していく部隊から病兵として放置され、大岡は単独で山中を彷徨(ほうこう)しているうちに倒れて気を失い、米兵に発見されて捕虜となりました。レイテ島に送られたのはこのあとのことです。『野火』の舞台はレイテ島ですが、自身は捕虜として収容されていました。兵士としての戦争体験の舞台はミンドロ島でした。3月にレイテ島の病院から一般収容所に移送され、8月に日本はポツダム宣言を受諾し降伏。大岡は12月になって帰国が叶(かな)います。そして翌46年、37歳のときに小林秀雄の勧めによって、のちに『俘虜記(ふりょき)』にまとまる小説のうち、「捉(つか)まるまで」を書きました。同時に『野火』の原型である『狂人日記』も書き始めます。大岡昇平の小説家としての仕事はここから始まります。デビューは38歳と、かなり遅い。むろん、それまでの文学研究の蓄積はあるにせよ、小説家としての出発は漱石と同じくらい遅かったのです。
■『NHK100分de名著 大岡昇平 野火』より

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