「反戦小説」にとどまらない『野火』
『100分de名著』2017年8月号で取り上げるのは、大岡昇平(おおおか・しょうへい)の『野火(のび)』です。指南役の作家・法政大学教授の島田雅彦(しまだ・まさひこ)さんが、自身にとっても「重要かつ特別な作家」と敬意を表する大岡の「看板的作品」の奥深さについて語ります。
* * *
小説は、それが事実であろうとなかろうと、書いてしまうことのできるジャンルです。しかし、事実でないものを事実だということはできません。限りなく事実に接近できる立場にいながら、事実から目を背ける態度は自ら厳しく慎むべきなのです。小説家・大岡昇平は戦争や歴史を美談にすることを拒否した作家です。小説というジャンルや歴史記述の方法に対し、誠実を尽くしたことによって、日本近代文学史上、最も影響力のある作家となったといっても異論はないでしょう。
私個人にとっても重要かつ特別な作家で、尊敬を込めて「大岡先生」とお呼びしたいのです。私は1983年、大学在学中に『優しいサヨクのための嬉遊曲(きゆうきょく)』という作品で作家デビューしたものの、当時の選考委員諸氏との相性が悪く、不名誉にも芥川賞の落選回数記録を樹立してしまいました。私の祖父と同い年の大岡先生は、その好奇心の強さから、孫の世代の私の初期作品にも目を通し、常にフェアなコメントをしてくださいました。当時、岩波書店の「世界」誌上で埴谷雄高(はにや・ゆたか)氏と「二つの同時代史」という連続対談を続けておられましたが、そこでも言及してくださいました。『大岡昇平全集』(筑摩書房)の別巻や岩波現代文庫で読むことができます。
私は『野火』をはじめとする大岡作品に高校時代から親しんでいましたが、文学史上の偉大な先達と見做(みな)していましたから、その人物に認められたことの光栄と、生前のご夫妻にお会いして直接言葉を交わした幸運を今でも人生最良の恩恵と受け止めています。後輩には公平で優しい方でしたが、文学や世相に対する批評は辛辣(しんらつ)で、中途半端なことを書いたら許さないという睨(にら)みも利かせていました。
今回、「100分de名著」で取り上げる『野火』は、作家大岡昇平の看板的作品です。戦後文学、戦争文学の金字塔であることには疑いがありませんが、戦後文学という限定をつけず、明治以降の日本近代文学史を通じて、ベスト3にランクインする作品でしょう。「日本映画史における最高傑作は?」といったアンケートで必ず挙がるのは、小津安二郎の『東京物語』や黒澤明の『七人の侍』ですが、それと同様に『野火』は近代文学の最重要作といえます。
『野火』は何処かダンテの『神曲』「地獄篇」を彷彿(ほうふつ)させる地獄巡りの話で、基本、語り手の「私」こと田村一等兵のモノローグによって構成されています。レイテ島の熱帯雨林を彷徨(さまよ)い、飢餓に喘(あえ)ぐ部隊、傷病者が放置される野戦病院、道端に累々(るいるい)と横たわる遺体など戦争末期の悲惨な現実を見つめながら、「私」は自意識を反芻(はんすう)しています。その語り口は冷徹で、詩的かつ思弁的です。戦争末期に日本軍兵士たちが経験した極限状況の報告、とりわけ生存を懸けた狡知(こうち)の応酬、死に限りなく接近すること、緩やかに死んでゆくことについての実存的考察は、人間の本能や欲動を見据えた戦後文学の最も大きな成果といえるでしょう。
『野火』は同時期に書かれた『俘虜記(ふりょき)』や、大岡自身の体験に根ざした諸短篇とは質的な違いがあります。大岡昇平をはじめとする戦後派の作家は、戦前に翼賛体制が成立したときにはすでに成人しており、それ以降の世代とは異なり、とても知的緊張の度合いが高い人々です。彼らは、キリスト教やマルクス主義のような西洋外来思想と真摯に正面から向き合う青年時代を過ごしたのちに不本意ながら戦争を体験した。狭隘(きょうあい)な日本文学のコンテクスト(文脈)を外れて、世界文学のコンテクストの中で自分に何ができるのか、戦争による大量死の後に文学にできることはあるのかを真剣に考えた世代です。
大岡先生や埴谷先生とお会いしたとき、私が普通に世間話をしたいと思っても、ふた言目にはカント、マルクスの名前が出てきたことを思い出します。彼らにとって、文学は全世界と交信するためのメディアでした。大岡昇平は戦後、敗戦国民としての惨めな思いや敗残兵としての筆舌に尽くしがたい経験を携えて、日本に帰還したとき、「戦争には負けたけれど文学で勝つのだ」との思いを抱くのです。自分がどれだけ特異な体験をし、そこで何を考えたのかを世界に問いたい。そうした意図を『野火』から感じ取ることができます。
大岡昇平は戦前、フランス文学の研究者でした。スタンダールを愛するスタンダリアンだった。当時の年齢感覚として、青年期を過ぎ、人生をすでに折り返した35歳のとき、召集されて、連敗中の日本にとって最終防衛ラインと位置づけられたフィリピン戦線に送られました。大岡が乗っていた船の後ろを航行していた輸送船は潜水艦に撃沈されています。すでに制海権、制空権を米軍に握られている中では敗戦必至の戦場でした。彼が所属していたサンホセ警備隊の六十余人のうち生き残った兵士はわずか2人(ほかに下士官3人)で、彼はその1人だったのです。どこの国の兵士であれ戦争では辛い思いをしますが、たとえば、レイテ島での死亡率が97パーセント、すなわち生存率がわずか3パーセントという悲惨な状況は類を見ないでしょう。勝利し、生還することが前提の米兵に対し、日本兵は玉砕するために戦地に赴いているのです。
復員した兵士でのちに戦争文学を書いた人は多く、野間宏『真空地帯』、大西巨人『神聖喜劇』、古山高麗雄(こまお)『プレオー8(ユイット)の夜明け』など、いくつも名を挙げられます。しかし『野火』は、それらの作品ともかなり趣が異なります。主人公の田村一等兵を通じて描かれる戦争の悲惨さは、シンプルに反戦小説と見做されることをどこかで拒んでいる強さがあるのです。
『野火』は異なるテーマが複層的に打ち出された作品で、多面的な読み方が可能です。これは戦争小説ではなく、一種の「信仰告白」あるいは「意識の流れ」として読む方法もあります。大岡昇平はスタンダールだけではなく、西欧文学の広範な素養を持った作家でした。彼はその知識を駆使して、ダンテやゲーテまで取り込むような世界文学の枠組みの中で『野火』を書いたのです。その奥深さを、これから探ってみたいと思います。
■『NHK100分de名著 大岡昇平 野火』より
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小説は、それが事実であろうとなかろうと、書いてしまうことのできるジャンルです。しかし、事実でないものを事実だということはできません。限りなく事実に接近できる立場にいながら、事実から目を背ける態度は自ら厳しく慎むべきなのです。小説家・大岡昇平は戦争や歴史を美談にすることを拒否した作家です。小説というジャンルや歴史記述の方法に対し、誠実を尽くしたことによって、日本近代文学史上、最も影響力のある作家となったといっても異論はないでしょう。
私個人にとっても重要かつ特別な作家で、尊敬を込めて「大岡先生」とお呼びしたいのです。私は1983年、大学在学中に『優しいサヨクのための嬉遊曲(きゆうきょく)』という作品で作家デビューしたものの、当時の選考委員諸氏との相性が悪く、不名誉にも芥川賞の落選回数記録を樹立してしまいました。私の祖父と同い年の大岡先生は、その好奇心の強さから、孫の世代の私の初期作品にも目を通し、常にフェアなコメントをしてくださいました。当時、岩波書店の「世界」誌上で埴谷雄高(はにや・ゆたか)氏と「二つの同時代史」という連続対談を続けておられましたが、そこでも言及してくださいました。『大岡昇平全集』(筑摩書房)の別巻や岩波現代文庫で読むことができます。
私は『野火』をはじめとする大岡作品に高校時代から親しんでいましたが、文学史上の偉大な先達と見做(みな)していましたから、その人物に認められたことの光栄と、生前のご夫妻にお会いして直接言葉を交わした幸運を今でも人生最良の恩恵と受け止めています。後輩には公平で優しい方でしたが、文学や世相に対する批評は辛辣(しんらつ)で、中途半端なことを書いたら許さないという睨(にら)みも利かせていました。
今回、「100分de名著」で取り上げる『野火』は、作家大岡昇平の看板的作品です。戦後文学、戦争文学の金字塔であることには疑いがありませんが、戦後文学という限定をつけず、明治以降の日本近代文学史を通じて、ベスト3にランクインする作品でしょう。「日本映画史における最高傑作は?」といったアンケートで必ず挙がるのは、小津安二郎の『東京物語』や黒澤明の『七人の侍』ですが、それと同様に『野火』は近代文学の最重要作といえます。
『野火』は何処かダンテの『神曲』「地獄篇」を彷彿(ほうふつ)させる地獄巡りの話で、基本、語り手の「私」こと田村一等兵のモノローグによって構成されています。レイテ島の熱帯雨林を彷徨(さまよ)い、飢餓に喘(あえ)ぐ部隊、傷病者が放置される野戦病院、道端に累々(るいるい)と横たわる遺体など戦争末期の悲惨な現実を見つめながら、「私」は自意識を反芻(はんすう)しています。その語り口は冷徹で、詩的かつ思弁的です。戦争末期に日本軍兵士たちが経験した極限状況の報告、とりわけ生存を懸けた狡知(こうち)の応酬、死に限りなく接近すること、緩やかに死んでゆくことについての実存的考察は、人間の本能や欲動を見据えた戦後文学の最も大きな成果といえるでしょう。
『野火』は同時期に書かれた『俘虜記(ふりょき)』や、大岡自身の体験に根ざした諸短篇とは質的な違いがあります。大岡昇平をはじめとする戦後派の作家は、戦前に翼賛体制が成立したときにはすでに成人しており、それ以降の世代とは異なり、とても知的緊張の度合いが高い人々です。彼らは、キリスト教やマルクス主義のような西洋外来思想と真摯に正面から向き合う青年時代を過ごしたのちに不本意ながら戦争を体験した。狭隘(きょうあい)な日本文学のコンテクスト(文脈)を外れて、世界文学のコンテクストの中で自分に何ができるのか、戦争による大量死の後に文学にできることはあるのかを真剣に考えた世代です。
大岡先生や埴谷先生とお会いしたとき、私が普通に世間話をしたいと思っても、ふた言目にはカント、マルクスの名前が出てきたことを思い出します。彼らにとって、文学は全世界と交信するためのメディアでした。大岡昇平は戦後、敗戦国民としての惨めな思いや敗残兵としての筆舌に尽くしがたい経験を携えて、日本に帰還したとき、「戦争には負けたけれど文学で勝つのだ」との思いを抱くのです。自分がどれだけ特異な体験をし、そこで何を考えたのかを世界に問いたい。そうした意図を『野火』から感じ取ることができます。
大岡昇平は戦前、フランス文学の研究者でした。スタンダールを愛するスタンダリアンだった。当時の年齢感覚として、青年期を過ぎ、人生をすでに折り返した35歳のとき、召集されて、連敗中の日本にとって最終防衛ラインと位置づけられたフィリピン戦線に送られました。大岡が乗っていた船の後ろを航行していた輸送船は潜水艦に撃沈されています。すでに制海権、制空権を米軍に握られている中では敗戦必至の戦場でした。彼が所属していたサンホセ警備隊の六十余人のうち生き残った兵士はわずか2人(ほかに下士官3人)で、彼はその1人だったのです。どこの国の兵士であれ戦争では辛い思いをしますが、たとえば、レイテ島での死亡率が97パーセント、すなわち生存率がわずか3パーセントという悲惨な状況は類を見ないでしょう。勝利し、生還することが前提の米兵に対し、日本兵は玉砕するために戦地に赴いているのです。
復員した兵士でのちに戦争文学を書いた人は多く、野間宏『真空地帯』、大西巨人『神聖喜劇』、古山高麗雄(こまお)『プレオー8(ユイット)の夜明け』など、いくつも名を挙げられます。しかし『野火』は、それらの作品ともかなり趣が異なります。主人公の田村一等兵を通じて描かれる戦争の悲惨さは、シンプルに反戦小説と見做されることをどこかで拒んでいる強さがあるのです。
『野火』は異なるテーマが複層的に打ち出された作品で、多面的な読み方が可能です。これは戦争小説ではなく、一種の「信仰告白」あるいは「意識の流れ」として読む方法もあります。大岡昇平はスタンダールだけではなく、西欧文学の広範な素養を持った作家でした。彼はその知識を駆使して、ダンテやゲーテまで取り込むような世界文学の枠組みの中で『野火』を書いたのです。その奥深さを、これから探ってみたいと思います。
■『NHK100分de名著 大岡昇平 野火』より
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