維摩の病の原因は「慈悲」だった

病床にある維摩を見舞いたい釈迦は、信頼する弟子たちに代役を頼みますが、弟子たちは維摩にやり込められた過去を理由に辞退してしまいます。結局、十大弟子全員、そして菩薩たちに断られた釈迦は、ついに智慧の象徴として知られる文殊菩薩(もんじゅぼさつ)に声をかけ、渋々ながらもついに承諾を得ることに成功します。その訪問の様子が『維摩経』の第五章「文殊師利問疾品(もんじゅしりもんしつぼん)」に綴られています。如来寺住職・相愛大学教授の釈徹宗(しゃく・てっしゅう)さんと共に読み解いていきましょう。

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文殊菩薩が維摩の見舞いに行くと知った弟子や菩薩や神々たちは、それまでは及び腰だったくせに、「文殊菩薩と維摩の二人が話をしたらすごいことになるぞ。素晴らしい教えが聞けるに違いない」と考えて、みんなで一緒についていくことになります。
文殊菩薩が大勢の者を引き連れて維摩の家へと向かっていた頃、文殊菩薩たちが来ることを察した維摩は、家の者たちに外出を命じ、家具をすべて片付けて、がらんとした部屋に一人で寝ている状態で待っていました。
やがて一行がやってくると、維摩は「ようこそおいでくださいました」と礼を述べた後に、いきなりこんな言葉を文殊菩薩に投げかけます。
「あなたは“来ない”という姿(不来迎〈ふらいごう〉)でここに来られた。そして“見ない”という態度(不見相〈ふけんそう〉)で見ましたね」
何を言っているのか一読しただけではよくわからない言葉ですが、さすが智慧の象徴だけあって、文殊菩薩は少しも動じることなく次のように返します。
「確かに、おっしゃるとおりです。“来た”という結果はすでに過ぎ去ったものです。だから、もう“来る”という行為を行うことはできません。いや、私はどこからも来ることはできないし、どこへ去ることもできない、と言ったほうがいいでしょう。まさに今、この瞬間しか実在はできないのですから。同様に、何かを見るということは、何かを見ないことでもあるのです」
なんだか、難解な禅問答的やり取りです。この二人にかかると、「来る」「見る」「去る」といったシンプルな行為も、深い思索の手がかりになるのでしょう。ここはとても有名な「維摩と文殊の出会いの場面」です。ただ、チベットで発見されたサンスクリット本を見ますと、それほどひねくれたものではなく、維摩が「よくいらっしゃった。今まで来たことも会ったことも見たことも聞いたこともないお方にお会いするとは」といった挨拶にも読み取れます。また、対する文殊も、「おっしゃる通りです。すでに来たものは再び来ることはない」などと少々エッジの効いた応答をしているだけのように読めます。それなら理解しやすいですね。個人的には漢訳のやり取りの方が面白いなと思いますが。
さて、互いの挨拶が終わり、文殊菩薩は、冷静かつ丁寧に「ところで、あなたの病気の原因はいったい何なのでしょう。いつ頃から患(わずら)っているのですか。何をすればその病いは治るのでしょうか」と、病気のことを尋ねはじめます。それを聞いた維摩は、自分の病いの原因と回復の見込みを次のように説明しました。
「ものごとの本当の姿を理解できないということ(痴〈ち〉)と、自分でもコントロールできないほど次から次へと貪る心(有愛)が原因で、私は病気になってしまいました。これは誰もが罹る病いです。もし、すべての人がこの病気に罹らないでいられるならば、そのときこそ私の病気も完治することでしょう」
ここは病気にたとえながら、人間の苦悩の根本的な原因が語られている重要な部分です。維摩はものごとの本質がわからないという愚痴である「痴」と、過剰な欲望である「有愛」を自分の病気の二つの原因として挙げていますが、これに「怒り」を加えたものを仏教では、克服すべき三つの煩悩と定義して「三毒(さんどく)」と呼んでいます。一般的には三毒は「貪欲(とんよく/有愛)」「瞋恚(しんに/怒り)「愚痴(痴)」と表現されます。

■維摩の病いの原因は「慈悲」だった

この三つがあるからこそ人間は自分の都合を暴れさせてしまい、苦悩を抱えることになるというのは理解できますが、ここでひとつ疑問が生じます。維摩自身はすでに仏道を極めていた人物で、三毒からはすでに離れた状態にあったはずです。それなのに、なぜ病いに罹ってしまったのでしょうか。維摩はその理由を次のように語っています。
「そもそも菩薩とは、すべての生きとし生けるものを救うためにこの世俗社会に姿を現したものです。生き死にのあるところには病気はつきものですが、もしすべての人々が病気から逃れることができれば、菩薩も病気になることはありません。
たとえば、ある長者の家の一人っ子が病気になったとしましょう。愛しい子どもが病気になれば、両親もそれを心配して病気になってしまいます。でも、子どもの病気が治ってしまえば両親の病気も治ります。菩薩もこれと同じなのです。この世界の人々を自分の子どものように愛するのが“菩薩の道”です。つまり、菩薩の病いは“大悲(限りない広大な慈悲)”から起こるのです」
維摩がここで言っている「菩薩」とは、自分(維摩)自身を含めた「悟りを求めて仏道を歩む者すべて」を指しています。そのことを踏まえて読むと、維摩が病気に罹った理由がわかってきます。維摩は世俗の中で生きるうちに、三毒で病んでいる人がたくさんいることを知り、そういう人たちの苦しみに寄り添おうとしているうちに、自分も病いに罹ってしまったのです。「衆生(しゅじょう)病むがゆえに、我は病む」つまり慈悲が維摩の病いの原因だったのです。
『維摩経』は初期の大乗仏典なので、この「慈悲」の問題が大きなテーマとなっています。「慈悲」と「空」がこの経典の二本柱であると言ってよいでしょう。慈悲の基本は、「他者の痛みを我が痛みとする」「他者の喜びを我が喜びとする」ところにあります。私たちでも、ときには他者の苦悩に胸を痛めることが起こります。たとえば、東日本大震災などの大きな災害に見舞われた際は、自分が被災したわけでもないのに、痛みを感じ、涙がとまらない、そんな状態になった人も少なくありませんでした。こういった状態は、いわば心の共振現象ですね。振動数が一致すれば、離れていても振動が伝導するのが物質の共振現象です。当事者ではなくても、他者の喜びや苦しみに自分の心をチューニングすれば、同じ振動が起こるに違いありません。慈悲もこのようなメカニズムだと思います。維摩は、人々の苦しみに心身をチューニングした結果、病気になってしまったのです。
■『NHK100分de名著 維摩経』より

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