哲学者・三木清が『人生論ノート』に至るまで
今年は三木清生誕120年の節目に当たります。彼は48年という短い生涯に膨大な著作を遺しました。その中で最も読まれているのが『人生論ノート』です。この哲学エッセイ集をひもとく前に、まずは『人生論ノート』に至る三木の人生を辿ってみることにしましょう。哲学者の岸見一郎(きしみ・いちろう)さんが解説します。
* * *
三木清は1897(明治三十)年、兵庫県龍野(たつの)の裕福な農家の長男として生まれました。少年時代は文学に傾倒し、なかでも徳冨蘆花(とくとみ・ろか)の作品を愛読しました。
中学を卒業すると単身上京し、第一高等学校(旧制一高)に進みます。「ひとりぼっちで東京のまんなかに放り出された」彼は「孤独な田舎者」(「読書遍歴」)だったと述懐していますが、彼はここで人生の行路を決定づける一冊の書と巡り合います。日本を代表する哲学者・西田幾多郎の『善の研究』です。西田が展開する独創的な思索に触れた三木は、「嘗(かつ)て感じたことのない全人格的な満足を見出すことが出来て踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)」(『語られざる哲学』)し、「まだ何をやろうかと迷っていた私に哲学をやることを決心させた」(「我が青春」)と記しています。
1917年、西田が教鞭をとる京都帝国大学文学部哲学科に入学。西田をはじめ、哲学史の朝永三十郎(ともなが・さんじゅうろう)、宗教哲学の波多野精一(はたの・せいいち)、美学の深田康算(ふかだ・やすかず)など錚々(そうそう)たる教授陣の薫陶を受け、三木は学びと思索を深めていきました。
その一端を垣間見ることができるのが、在学中の1919年、22歳の時に著した『語られざる哲学』です。「懺悔は語られざる哲学である」という一文で始まるこの著作は、いわば哲学者・三木清の所信表明。自らの目指す哲学や哲学者の在り方について綴(つづ)ったその文章は、ほとばしるような情熱と強い決意を鮮やかに伝えています。
1920年に大学を卒業すると、彼は岩波書店の後援を受けて1922年春から25年の秋までヨーロッパに留学します。まだ無名の三木を岩波書店に推したのは、京大時代の恩師、波多野でした。ドイツではリッケルト、ハイデガーのもとで最新の学問と思想を学び、さらにフランス・パリに居を移してパスカル研究に没頭。ここで書き上げたパスカル論を、帰国後、岩波書店から『パスカルに於ける人間の研究』(1926)として刊行します。パスカルの『パンセ』を見事に読み解いた本書が三木の処女作です。残念ながら当時はあまり売れませんでした。三木も、そもそもパスカルの名前も当時は知られてなかったからです。
■在野の哲学者として
実り多き留学から帰国した三木は、西田の後継者として京大に迎えられるものと目され、本人もそれを望んでいました。しかし、声がかかることはついにありませんでした。過去の女性関係が問題にされたという説もありますが、真偽のほどはわかりません。三木は法政大学教授となって東京に戻り、同時に岩波書店の編集顧問のような仕事を始めます。
東京に活動の拠点を移して二年後には、農業経済学者・東畑精一(とうばた・せいいち)の妹、喜美子(きみこ)さんと結婚。三木は「特殊な運命が私を待っているように思うが、それを承知の上でよろしければ」と語り、喜美子さんも知人に宛てた手紙に「(三木は)かなり特異な性格者」で、彼と運命を共にする自分の一生は「多難をまぬかれぬ事と思います」と書いています(『影なき影』所収)。
二人の言葉が暗示した通り、結婚翌年、三木は共産党に資金を提供したとして治安維持法違反のかどで検挙・起訴されます。数カ月で執行猶予となり出所しますが、一人娘の洋子さんが生まれたのは三木が刑務所にいる間のことでした。この一件もあって三木は教職を辞し、自宅で主著となる『歴史哲学』の執筆に専心。その後は在野の哲学者・社会評論家として活躍します。新聞や雑誌への寄稿、講演会・座談会活動──。彼は容貌魁偉(かいい)にしてバイタリティあふれる大男だったようですが、あまりの忙しさに「本屋さんたちは書物がずいぶん簡単に書けるものと思っているらしい」と日記で嘆息しています(1936年2月2日付の日記より。全集第十九巻所収)。
アカデミズムを飛び出すことは、彼の本望ではなかったかもしれません。しかし、それは後世の私たちにとっては幸いだったとも言えます。検閲によって削除・不掲載、時には発禁処分を受けることもありましたが、ジャーナリズムで大活躍した三木は、学術的な論文のみならず一般向けの著述をたくさん遺してくれているからです。
■失意と挫折を経て生まれた『人生論ノート』
結婚してわずか7年、喜美子夫人が急逝します。三木が多忙を極めていた1936年の夏のことでした。そして翌年の春、彼は『歴史哲学』に続く主著として進めていた『哲学的人間学』の完成を断念します。版元の岩波書店はすでに発売予告を出し、推敲(すいこう)の跡が見える校正刷りも残されていますが、完成までもう一歩というところで白紙と化したのでした。
なぜ断念したのか。理由は定かではありませんが、同年、三木は「思想」誌上で新たな連載『構想力の論理』を開始。喜美子さんの一周忌には追悼文集『影なき影』を編んでいます。この文集に三木が寄せた「幼き者の為に」は、まだ六歳だった娘のために亡き妻を回想したもので、その愛情あふれる文章には三木の論敵すら涙したといわれます。
若い頃から文学に親しみ、漢詩や和歌もよくした三木は優れた文章家でもありました。独自の文学論を展開した著作もある三木は、小林秀雄の誘いで「文学界」誌の同人となります。ちょうど『哲学的人間学』の完成を断念した頃のことです。
そして同人になった翌年の6月、同誌で連載を始めます。この1938年から1941年にかけて断続的に掲載されたエッセイを一冊にまとめたのが『人生論ノート』です。未完に終わった『哲学的人間学』で展開していた思想の一部も、ここに引き継がれています。
■『NHK100分de名著 三木 清 人生論ノート』より
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三木清は1897(明治三十)年、兵庫県龍野(たつの)の裕福な農家の長男として生まれました。少年時代は文学に傾倒し、なかでも徳冨蘆花(とくとみ・ろか)の作品を愛読しました。
中学を卒業すると単身上京し、第一高等学校(旧制一高)に進みます。「ひとりぼっちで東京のまんなかに放り出された」彼は「孤独な田舎者」(「読書遍歴」)だったと述懐していますが、彼はここで人生の行路を決定づける一冊の書と巡り合います。日本を代表する哲学者・西田幾多郎の『善の研究』です。西田が展開する独創的な思索に触れた三木は、「嘗(かつ)て感じたことのない全人格的な満足を見出すことが出来て踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)」(『語られざる哲学』)し、「まだ何をやろうかと迷っていた私に哲学をやることを決心させた」(「我が青春」)と記しています。
1917年、西田が教鞭をとる京都帝国大学文学部哲学科に入学。西田をはじめ、哲学史の朝永三十郎(ともなが・さんじゅうろう)、宗教哲学の波多野精一(はたの・せいいち)、美学の深田康算(ふかだ・やすかず)など錚々(そうそう)たる教授陣の薫陶を受け、三木は学びと思索を深めていきました。
その一端を垣間見ることができるのが、在学中の1919年、22歳の時に著した『語られざる哲学』です。「懺悔は語られざる哲学である」という一文で始まるこの著作は、いわば哲学者・三木清の所信表明。自らの目指す哲学や哲学者の在り方について綴(つづ)ったその文章は、ほとばしるような情熱と強い決意を鮮やかに伝えています。
1920年に大学を卒業すると、彼は岩波書店の後援を受けて1922年春から25年の秋までヨーロッパに留学します。まだ無名の三木を岩波書店に推したのは、京大時代の恩師、波多野でした。ドイツではリッケルト、ハイデガーのもとで最新の学問と思想を学び、さらにフランス・パリに居を移してパスカル研究に没頭。ここで書き上げたパスカル論を、帰国後、岩波書店から『パスカルに於ける人間の研究』(1926)として刊行します。パスカルの『パンセ』を見事に読み解いた本書が三木の処女作です。残念ながら当時はあまり売れませんでした。三木も、そもそもパスカルの名前も当時は知られてなかったからです。
■在野の哲学者として
実り多き留学から帰国した三木は、西田の後継者として京大に迎えられるものと目され、本人もそれを望んでいました。しかし、声がかかることはついにありませんでした。過去の女性関係が問題にされたという説もありますが、真偽のほどはわかりません。三木は法政大学教授となって東京に戻り、同時に岩波書店の編集顧問のような仕事を始めます。
東京に活動の拠点を移して二年後には、農業経済学者・東畑精一(とうばた・せいいち)の妹、喜美子(きみこ)さんと結婚。三木は「特殊な運命が私を待っているように思うが、それを承知の上でよろしければ」と語り、喜美子さんも知人に宛てた手紙に「(三木は)かなり特異な性格者」で、彼と運命を共にする自分の一生は「多難をまぬかれぬ事と思います」と書いています(『影なき影』所収)。
二人の言葉が暗示した通り、結婚翌年、三木は共産党に資金を提供したとして治安維持法違反のかどで検挙・起訴されます。数カ月で執行猶予となり出所しますが、一人娘の洋子さんが生まれたのは三木が刑務所にいる間のことでした。この一件もあって三木は教職を辞し、自宅で主著となる『歴史哲学』の執筆に専心。その後は在野の哲学者・社会評論家として活躍します。新聞や雑誌への寄稿、講演会・座談会活動──。彼は容貌魁偉(かいい)にしてバイタリティあふれる大男だったようですが、あまりの忙しさに「本屋さんたちは書物がずいぶん簡単に書けるものと思っているらしい」と日記で嘆息しています(1936年2月2日付の日記より。全集第十九巻所収)。
アカデミズムを飛び出すことは、彼の本望ではなかったかもしれません。しかし、それは後世の私たちにとっては幸いだったとも言えます。検閲によって削除・不掲載、時には発禁処分を受けることもありましたが、ジャーナリズムで大活躍した三木は、学術的な論文のみならず一般向けの著述をたくさん遺してくれているからです。
■失意と挫折を経て生まれた『人生論ノート』
結婚してわずか7年、喜美子夫人が急逝します。三木が多忙を極めていた1936年の夏のことでした。そして翌年の春、彼は『歴史哲学』に続く主著として進めていた『哲学的人間学』の完成を断念します。版元の岩波書店はすでに発売予告を出し、推敲(すいこう)の跡が見える校正刷りも残されていますが、完成までもう一歩というところで白紙と化したのでした。
なぜ断念したのか。理由は定かではありませんが、同年、三木は「思想」誌上で新たな連載『構想力の論理』を開始。喜美子さんの一周忌には追悼文集『影なき影』を編んでいます。この文集に三木が寄せた「幼き者の為に」は、まだ六歳だった娘のために亡き妻を回想したもので、その愛情あふれる文章には三木の論敵すら涙したといわれます。
若い頃から文学に親しみ、漢詩や和歌もよくした三木は優れた文章家でもありました。独自の文学論を展開した著作もある三木は、小林秀雄の誘いで「文学界」誌の同人となります。ちょうど『哲学的人間学』の完成を断念した頃のことです。
そして同人になった翌年の6月、同誌で連載を始めます。この1938年から1941年にかけて断続的に掲載されたエッセイを一冊にまとめたのが『人生論ノート』です。未完に終わった『哲学的人間学』で展開していた思想の一部も、ここに引き継がれています。
■『NHK100分de名著 三木 清 人生論ノート』より
- 『三木 清『人生論ノート』 2017年4月 (100分 de 名著)』
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