「存在すること自体の罪」を自覚せよ

ガンディーは、若き日の生活を通じて近代社会に浸かり、近代的な欲望がどれだけ魅力あるものなのかを身をもって知っていました。酒を飲み、ダンスホールにも行き、別の女性に恋心を抱き……妻に対する性欲や嫉妬心にはじまり、肉食、たばこ、名誉欲、浮気心、金銭欲、そうしたさまざまな欲望をすべて経験していたわけです。
近代というものの楽しさや魅力を十分に知っていたからこそ、これを乗り越えないとさまざまな問題は解決しないと考え、自分自身を変えていこうとした。東京工業大学教授の中島岳志(なかじま・たけし)さんは、それがガンディーの宗教や信仰のあり方だったと思う、と語ります。では、そうした「近代人」であるガンディーは、人間というものをどう捉えていたのでしょうか。

* * *

まず、ガンディーが考えたのは、「人間には存在すること自体の中に罪深さが含まれている」ということでした。
英語では「罪」を意味する言葉に、crime とsin という二つの単語があります。crime はいわゆる犯罪。人を殴るとかものを盗むとか、法に触れて逮捕されるような行為をいいます。一方、sin はもっと宗教的な、人が存在すること自体につきまとう罪、原罪といわれるものです。人が生きるためには他の生き物の命を奪わざるを得ないことや、そもそもこの生というものが親の性欲という欲望と密着していること……そうした、欲望というものを抱えざるを得ない生命そのものの罪を指しているのです。
ガンディーがいう「罪」とは、こちらのsinのほうです。『獄中からの手紙』にこうあります。
わたしたちが身を置く場には、幾百万という微生物が棲息していて、わたしたちがそこにいるというだけで被害をこうむります。それでは、わたしたちはどのように身を処せばよいのでしょうか。自殺をすればよいのでしょうか。そんなことをしても、なんの解決にもなりません

(『獄中からの手紙』森本達雄訳、岩波文庫、21ページ)



宮沢賢治に『よだかの星』という童話があります。主人公の鳥、夜鷹は不格好な見かけのために他の鳥たちからいじめられているのですが、一方で自分が生きているだけで昆虫などの命を奪っていることに悩み、絶望します。そして、太陽に向かって飛び立ち、焼け死ぬことを望みます。最終的には夜空で燃える星になるのですが、ここには生きることへの贖罪(しょくざい)感・罪悪感が強く反映されています。
賢治はこの夜鷹と同じく、自分が存在していること自体が他の生物を殺すことになるという問題にずっと悩んでいたようです。
ガンディーも、おそらくは賢治と同じところに立っているのですが、違うのは「自殺して何の意味があるのですか」というところです。生きているだけで他の生物の命を奪ってしまうという罪、sinを人間は超えられない。自ら死を選んでも意味はない。ただ、そういう罪を抱えているということに自覚的になりなさい、とガンディーは言うのです。
私は、この立場は親鸞に非常に近いと思います。親鸞がいう「悪人正機(あくにんしょうき)」とは、まさにsinの問題です。よく知られている「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや(善人さえ往生する。ましてや悪人が往生しないわけがあろうか)」とは、悪人ほど往生するという意味ではありません。
人間はみな悪人である、なぜなら常に何者かの命を奪って生きているのだから。その人間の根源的な悪に自覚的になったときに、初めて阿弥陀仏に対する「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏が口から出てくる。「自分は何でもできる」「自分はいい人間だ」と思っている人間は、祈りから遠ざかっていくというのが親鸞の考え方でした。ガンディーもまた、それと非常に近いことを考えたのです。
■『NHK100分de名著 ガンディー 獄中からの手紙』より

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