政治家・宗教家ガンディーの真骨頂 「塩の行進」
イギリスによる植民地支配下のインドに生まれたガンディーは、南アフリカで弁護士として活動した後、インドに戻り国内各地で労働運動を指揮して頭角を現し、やがてインドの独立運動の指導者として事実上のトップに立ちました。運動が拡大し、独立の機運が高まっていた1922年、街頭デモに対して発砲した警官に民衆が激昂し、警官22人を建物の中に追い込んで焼き殺すという事件が起こります。これを知ったガンディーは「このようなことが起こるならインド人は独立すべきではない」と、一切の独立運動から距離を置いてしまいました。
その後、1920年代の終わりに、ネルーやチャンドラ・ボースといった若い独立運動家たちによって独立運動が再び盛り上げりを見せ、運動の中心組織である国民会議派の指導者がガンディーに「もう一度独立運動のトップに立ってほしい」と懇願します。1カ月半ほど考えた末にガンディーが出した結論は「私は海岸まで歩いて行って、塩をつくろうと思う」というものでした。この決意の意味について、東京工業大学教授の中島岳志(なかじま・たけし)さんが解説します。
* * *
■政治の中に、宗教を取り戻す
当時のインドでは、塩はイギリスによる専売制となっており、勝手に塩をつくることは法で禁じられていました。どんな貧しい人も、塩は植民地政府から買わなくてはならなかったのです。人間の身体にとって不可欠な、しかも天からの恵みであるはずの塩を、なぜイギリスが独占しているのか。その問いを通じて、人々にイギリスの植民地支配そのものの不当性を伝えようというのが、ガンディーの考えたことでした。
サバルマティー川のほとりを出発したガンディーは、道中の村々の一つひとつに立ち寄り、人々に向かって語りかけます。塩の専売制のおかしさ、イギリスによる支配のいびつさ……。文字の読み書きができないような貧しい人々にも、「塩」という身近な問題を通じた語りかけは、ストレートに響きました。ちなみに、先を急ぐのでなく、あちこちに立ち寄りながらゆっくり進んでいくというスタイルは、ガンディーがずっとこだわり続けた「近代のスピードへの懐疑」という問題にもつながっています。
また、同時にこの「塩の行進」は、きわめて宗教的な行為でもありました。布を身体に巻いただけの質素な姿で、乗り物にもいっさい乗らず、炎天下をとぼとぼと歩き続ける。それは、ほとんど「巡礼」のような姿だったといえるでしょう。
背景には、「法とダルマ」という意識があったと思います。法とはいわゆる近代的な法律、一方「ダルマ」は宗教的な言葉で、実定法(じっていほう)を超えた宇宙全体の法則のようなものです。インド人はよく「ダルマを果たせ」というのですが、これは「あなた自身が生きている中で与えられた義務を果たしなさい」という意味。インドには、それぞれが仕事や育児など、自分に与えられた役割をしっかりと担うことで世界は回っていくのだという伝統的な世界観があり、ダルマに従って生きることは非常に重要だと考えられています。
やはりこうした意識を強くもっていたガンディーは、法とダルマであれば当然ダルマが優先すると考えていました。そして、塩の専売を定めた近代法は、ダルマに反している。そんな法律に無批判に従うのではなく、勇気をもってダルマに従おうと人々に呼びかけ、それが自分たちにとっての「文明」であり常識であると訴えたのです。
だからこそ「塩の行進」は、やはり宗教的な行為として表現される必要があった。そして、そのときに重要だったのは「歩く」という行為が、ヒンドゥー教、イスラーム教、仏教、キリスト教……どの宗教においても共有される、誰もが支持することのできる行為だということでした。ガンディーは熱心なヒンドゥー教徒ですが、そのシンボルやアイテムを使うのではなく、あらゆる宗教に共通する部分──彼は「宗教の中の宗教」と言っていますが──を身体的に表現することで、宗教行為を政治に持ち込もうとしたのです。
実は、インドでは20世紀初頭に、B・G・ティラクという人物がヒンドゥー教のお祭りを利用した独立運動を展開しています。祭りという、人々の感情と密着した宗教的シンボルを使うことで、大衆を鼓舞してそのエネルギーを反英運動へと導いていったのです。
その狙いは、イギリスに対抗するという意味では成功したのですが、同時にヒンドゥー教徒の敵意をイギリスだけではなくイスラーム教徒に向けさせ、独立運動の中に宗教対立を組み込んでしまうことにもなりました。それは結果として、イギリスによる分割統治を強化することにつながり、インドは内部分裂に向かってしまうのです。
ガンディーはこの問題を、強く意識していました。だからこそ、特定の宗教の枠組みを超えた行為を共有することが必要だと考え、「歩く」という行為にたどり着いたのです。
粗末な格好のガンディーがとぼとぼと歩き続ける姿は、多くの人が心の奥に抱く信仰心に強く訴えかけ、大きな支持を引き出しました。テレビもない時代ですから、実際にガンディーの姿を見たわけではなく、新聞などに載った写真を見たり、話を聞いたりしただけの人々も多かったでしょう。しかし、日銭を稼ぐために毎日、半裸でレンガを頭の上に載せて運ぶ過酷な作業を続けていた労働者たちは、「ガンディーが自分たちと同じような姿で歩き続けている」という言葉を聞いただけで、その姿を想像して心を奮い立たせたのです。この「想像力」もまた、ガンディーが非常に重視したものでした。
出発したときには、わずか数十人だったガンディーの一行は、村々を抜けるたびに増え続け、最終的には数千人にまでふくれあがりました。その数千人が、海岸でともに祈りを捧げ、海水から塩をつくる光景に圧倒されたイギリスは、ガンディーに対しての歩み寄りを見せるようになるのです。
政治の中に、宗教を取り戻そうとしたガンディー。それを大衆レベルで、かつ宗教対立を引き起こさずに実行するためには、「塩」「歩く」「半裸」といった庶民性や日常性、シンボル性や普遍性がどうしても必要でした。それを、しかもたまたま見通しなくやったのではなく、意図的に、どんなことが巻き起こるかを予想して考え抜いた末にやったのが、ガンディーのすごいところです。単なる宗教家ではない、政治家としての恐るべき才覚を備えていたといえるでしょう。
こうして見てくると、「塩の行進」というのは、20世紀を代表する政治行為であり宗教行為であり、偉大な政治家・宗教家であったガンディーの真骨頂であったといえるのではないでしょうか。それが今、あまりにも忘れ去られすぎているように、私には思えます。
■『NHK100分de名著 ガンディー 獄中からの手紙』より
その後、1920年代の終わりに、ネルーやチャンドラ・ボースといった若い独立運動家たちによって独立運動が再び盛り上げりを見せ、運動の中心組織である国民会議派の指導者がガンディーに「もう一度独立運動のトップに立ってほしい」と懇願します。1カ月半ほど考えた末にガンディーが出した結論は「私は海岸まで歩いて行って、塩をつくろうと思う」というものでした。この決意の意味について、東京工業大学教授の中島岳志(なかじま・たけし)さんが解説します。
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■政治の中に、宗教を取り戻す
当時のインドでは、塩はイギリスによる専売制となっており、勝手に塩をつくることは法で禁じられていました。どんな貧しい人も、塩は植民地政府から買わなくてはならなかったのです。人間の身体にとって不可欠な、しかも天からの恵みであるはずの塩を、なぜイギリスが独占しているのか。その問いを通じて、人々にイギリスの植民地支配そのものの不当性を伝えようというのが、ガンディーの考えたことでした。
サバルマティー川のほとりを出発したガンディーは、道中の村々の一つひとつに立ち寄り、人々に向かって語りかけます。塩の専売制のおかしさ、イギリスによる支配のいびつさ……。文字の読み書きができないような貧しい人々にも、「塩」という身近な問題を通じた語りかけは、ストレートに響きました。ちなみに、先を急ぐのでなく、あちこちに立ち寄りながらゆっくり進んでいくというスタイルは、ガンディーがずっとこだわり続けた「近代のスピードへの懐疑」という問題にもつながっています。
また、同時にこの「塩の行進」は、きわめて宗教的な行為でもありました。布を身体に巻いただけの質素な姿で、乗り物にもいっさい乗らず、炎天下をとぼとぼと歩き続ける。それは、ほとんど「巡礼」のような姿だったといえるでしょう。
背景には、「法とダルマ」という意識があったと思います。法とはいわゆる近代的な法律、一方「ダルマ」は宗教的な言葉で、実定法(じっていほう)を超えた宇宙全体の法則のようなものです。インド人はよく「ダルマを果たせ」というのですが、これは「あなた自身が生きている中で与えられた義務を果たしなさい」という意味。インドには、それぞれが仕事や育児など、自分に与えられた役割をしっかりと担うことで世界は回っていくのだという伝統的な世界観があり、ダルマに従って生きることは非常に重要だと考えられています。
やはりこうした意識を強くもっていたガンディーは、法とダルマであれば当然ダルマが優先すると考えていました。そして、塩の専売を定めた近代法は、ダルマに反している。そんな法律に無批判に従うのではなく、勇気をもってダルマに従おうと人々に呼びかけ、それが自分たちにとっての「文明」であり常識であると訴えたのです。
だからこそ「塩の行進」は、やはり宗教的な行為として表現される必要があった。そして、そのときに重要だったのは「歩く」という行為が、ヒンドゥー教、イスラーム教、仏教、キリスト教……どの宗教においても共有される、誰もが支持することのできる行為だということでした。ガンディーは熱心なヒンドゥー教徒ですが、そのシンボルやアイテムを使うのではなく、あらゆる宗教に共通する部分──彼は「宗教の中の宗教」と言っていますが──を身体的に表現することで、宗教行為を政治に持ち込もうとしたのです。
実は、インドでは20世紀初頭に、B・G・ティラクという人物がヒンドゥー教のお祭りを利用した独立運動を展開しています。祭りという、人々の感情と密着した宗教的シンボルを使うことで、大衆を鼓舞してそのエネルギーを反英運動へと導いていったのです。
その狙いは、イギリスに対抗するという意味では成功したのですが、同時にヒンドゥー教徒の敵意をイギリスだけではなくイスラーム教徒に向けさせ、独立運動の中に宗教対立を組み込んでしまうことにもなりました。それは結果として、イギリスによる分割統治を強化することにつながり、インドは内部分裂に向かってしまうのです。
ガンディーはこの問題を、強く意識していました。だからこそ、特定の宗教の枠組みを超えた行為を共有することが必要だと考え、「歩く」という行為にたどり着いたのです。
粗末な格好のガンディーがとぼとぼと歩き続ける姿は、多くの人が心の奥に抱く信仰心に強く訴えかけ、大きな支持を引き出しました。テレビもない時代ですから、実際にガンディーの姿を見たわけではなく、新聞などに載った写真を見たり、話を聞いたりしただけの人々も多かったでしょう。しかし、日銭を稼ぐために毎日、半裸でレンガを頭の上に載せて運ぶ過酷な作業を続けていた労働者たちは、「ガンディーが自分たちと同じような姿で歩き続けている」という言葉を聞いただけで、その姿を想像して心を奮い立たせたのです。この「想像力」もまた、ガンディーが非常に重視したものでした。
出発したときには、わずか数十人だったガンディーの一行は、村々を抜けるたびに増え続け、最終的には数千人にまでふくれあがりました。その数千人が、海岸でともに祈りを捧げ、海水から塩をつくる光景に圧倒されたイギリスは、ガンディーに対しての歩み寄りを見せるようになるのです。
政治の中に、宗教を取り戻そうとしたガンディー。それを大衆レベルで、かつ宗教対立を引き起こさずに実行するためには、「塩」「歩く」「半裸」といった庶民性や日常性、シンボル性や普遍性がどうしても必要でした。それを、しかもたまたま見通しなくやったのではなく、意図的に、どんなことが巻き起こるかを予想して考え抜いた末にやったのが、ガンディーのすごいところです。単なる宗教家ではない、政治家としての恐るべき才覚を備えていたといえるでしょう。
こうして見てくると、「塩の行進」というのは、20世紀を代表する政治行為であり宗教行為であり、偉大な政治家・宗教家であったガンディーの真骨頂であったといえるのではないでしょうか。それが今、あまりにも忘れ去られすぎているように、私には思えます。
■『NHK100分de名著 ガンディー 獄中からの手紙』より
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