迷いと悟りは一体である
鎌倉時代に曹洞宗(そうとうしゅう)を開いた・道元が、悟りの後に著した大著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』。江戸時代に永平寺の宝蔵から出てきた「生死(しょうじ)」の巻を、仏教思想家のひろさちやさんが読み解きます。
* * *
道元は、二つの引用でもってこの巻を書き始めます。
生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし。又云いわく、生死の中に仏なければ生死にまどは(わ)ず。
前者は宋時代の禅師・夾山(かっさん)、後者も同時代の定山(じょうざん)の言葉だと言いますが、実際に調べてみると、二人の禅師の言葉は道元が紹介したものとは大きく違っていました。でも、それはあまり重要なことではありません。ともかく道元はこれら二つの言葉をつくりだして、生死の問題を追究するのです。
では、道元はこの二つの言葉で何を言いたかったのでしょうか。
まず前者ですが、ここで「生死」というのは迷いです。「仏」は悟り。わたしたちは迷い(生死)の世界で生活しているのです。しかし、わたしたちがその本質をしっかりと悟ってしまえば、迷いはなくなります。それが、「生死の中に仏あれば生死なし」です。
次に後者です。「生死(迷い)の中に仏(悟り)なければ」というのは、迷いの世界にいるわたしたちがその迷いを悟りによって超越しよう、克服しようなどと思わなければ、という意味です。そのとき、わたしたちは迷いに迷うことはありません。
そして道元は続けます。
ただ生死すなは(わ)ち涅槃(ねはん)とこゝろえて、生死としていとふ(う)べきもなく、涅槃としてねがふ(う)べきもなし。
ただ、生死がそのまま涅槃だと心得て、生死(迷い)であるからといって忌避(きひ)せず、涅槃(悟り)であるからといって願ってはならない。つまり、迷いのなかに悟りがあれば迷わないし、悟りを求めてあくせくしなければ迷わない。「そうしたとき、はじめて生死を離れる手立てができる」と道元は言います。
「涅槃」という言葉についても誤解が多いようですから、ここで補足しておきましょう。涅槃とはお釈迦さまが亡くなることだと思っている方が多いようですが、本当はそうではありません。涅槃とは煩悩を克服することです。お釈迦さまは三十五歳のときに悟りを開いて涅槃に入りました。これが第一の涅槃です。肉体はまだある状態です。そして八十歳で亡くなり、ついに肉体すらなくなった。その状態を般涅槃(はつねはん/パリ・ニルヴァーナ)と言います。「パリ」とは「完全な」という意味で、完全な涅槃に入られたということ。お釈迦さまの場合はそこに「大」を付けて「大般涅槃」と言います。
この「涅槃」に対し、煩悩を克服していない状態が「生死」です。
■自分を仏の世界に投げ入れる
さて、冒頭の二つの言葉に戻れば、要するに、生死というものをあるがままに見ることができれば、生死そのものが消滅するということです。なぜなら、わたしたちが生きているあいだは死なないし、死んでしまえば生はないからです。道元が言うように、「生といふ(う)ときには、生よりほかにものなく、滅といふ(う)とき、滅のほかにものなし」なのです。
逆に、生死の中にあって、それを超越しよう、克服しようなどと思わなければ、わたしたちは迷わずにすみます。わたしたちが迷うのは、生死を超越したいと思うからです。
だとすると、次のような結論が導き出されます。
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへ(え)になげいれて、仏のかたよりおこなは(わ)れて、これにしたがひ(い)もてゆくとき、ちからをもいれず、こゝろをもつひ(い)やさずして、生死をはなれ、仏となる。
わたしたちはいっさいの妄想──妄想というのは、生死にこだわり、生死を超越しようなどと考える心の働きです─をやめて、すべてを仏にまかせて、仏の心のままに生きるようにすればよい。そうすれば、わたしたちは凡夫ではなくなり、仏になりきっている。道元はそう言います。
「わが身をも心をもはなちわすれて」とは、まさに前回のテーマであった「身心脱落」と同じことです。「仏のいへになげいれて」とは、仏に「なりきる」ということ。道元が直接「なりきれ」と言っているわけではないのですが、この“なりきる”は道元を理解するうえでのもう一つのキイ・ワードだとわたしは考えています。たとえば幾何(きか)の問題を解くとき、図形にはない補助線を加えると、うまく問題が解けることがありますね。それと同じように、道元の言葉にはない一つの言葉を補ってみると、道元が何を言いたいのかよく分かる。その補助線が「なりきる」だとわたしは思っています。
道元は、生死を超越しようなどと思わず、仏になりきってしまえばいいと言っています。前回の蜘蛛の糸の譬えで言えば、下からのぼってくる人のことなど気にせず、蜘蛛の糸になりきってしまえばいいということです。そしてこの「なりきる」も、仏の世界に溶け込んでいくということで、身心脱落と同じ意味です。
■『NHK100分de名著 道元 正法眼蔵』より
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道元は、二つの引用でもってこの巻を書き始めます。
生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし。又云いわく、生死の中に仏なければ生死にまどは(わ)ず。
前者は宋時代の禅師・夾山(かっさん)、後者も同時代の定山(じょうざん)の言葉だと言いますが、実際に調べてみると、二人の禅師の言葉は道元が紹介したものとは大きく違っていました。でも、それはあまり重要なことではありません。ともかく道元はこれら二つの言葉をつくりだして、生死の問題を追究するのです。
では、道元はこの二つの言葉で何を言いたかったのでしょうか。
まず前者ですが、ここで「生死」というのは迷いです。「仏」は悟り。わたしたちは迷い(生死)の世界で生活しているのです。しかし、わたしたちがその本質をしっかりと悟ってしまえば、迷いはなくなります。それが、「生死の中に仏あれば生死なし」です。
次に後者です。「生死(迷い)の中に仏(悟り)なければ」というのは、迷いの世界にいるわたしたちがその迷いを悟りによって超越しよう、克服しようなどと思わなければ、という意味です。そのとき、わたしたちは迷いに迷うことはありません。
そして道元は続けます。
ただ生死すなは(わ)ち涅槃(ねはん)とこゝろえて、生死としていとふ(う)べきもなく、涅槃としてねがふ(う)べきもなし。
ただ、生死がそのまま涅槃だと心得て、生死(迷い)であるからといって忌避(きひ)せず、涅槃(悟り)であるからといって願ってはならない。つまり、迷いのなかに悟りがあれば迷わないし、悟りを求めてあくせくしなければ迷わない。「そうしたとき、はじめて生死を離れる手立てができる」と道元は言います。
「涅槃」という言葉についても誤解が多いようですから、ここで補足しておきましょう。涅槃とはお釈迦さまが亡くなることだと思っている方が多いようですが、本当はそうではありません。涅槃とは煩悩を克服することです。お釈迦さまは三十五歳のときに悟りを開いて涅槃に入りました。これが第一の涅槃です。肉体はまだある状態です。そして八十歳で亡くなり、ついに肉体すらなくなった。その状態を般涅槃(はつねはん/パリ・ニルヴァーナ)と言います。「パリ」とは「完全な」という意味で、完全な涅槃に入られたということ。お釈迦さまの場合はそこに「大」を付けて「大般涅槃」と言います。
この「涅槃」に対し、煩悩を克服していない状態が「生死」です。
■自分を仏の世界に投げ入れる
さて、冒頭の二つの言葉に戻れば、要するに、生死というものをあるがままに見ることができれば、生死そのものが消滅するということです。なぜなら、わたしたちが生きているあいだは死なないし、死んでしまえば生はないからです。道元が言うように、「生といふ(う)ときには、生よりほかにものなく、滅といふ(う)とき、滅のほかにものなし」なのです。
逆に、生死の中にあって、それを超越しよう、克服しようなどと思わなければ、わたしたちは迷わずにすみます。わたしたちが迷うのは、生死を超越したいと思うからです。
だとすると、次のような結論が導き出されます。
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへ(え)になげいれて、仏のかたよりおこなは(わ)れて、これにしたがひ(い)もてゆくとき、ちからをもいれず、こゝろをもつひ(い)やさずして、生死をはなれ、仏となる。
わたしたちはいっさいの妄想──妄想というのは、生死にこだわり、生死を超越しようなどと考える心の働きです─をやめて、すべてを仏にまかせて、仏の心のままに生きるようにすればよい。そうすれば、わたしたちは凡夫ではなくなり、仏になりきっている。道元はそう言います。
「わが身をも心をもはなちわすれて」とは、まさに前回のテーマであった「身心脱落」と同じことです。「仏のいへになげいれて」とは、仏に「なりきる」ということ。道元が直接「なりきれ」と言っているわけではないのですが、この“なりきる”は道元を理解するうえでのもう一つのキイ・ワードだとわたしは考えています。たとえば幾何(きか)の問題を解くとき、図形にはない補助線を加えると、うまく問題が解けることがありますね。それと同じように、道元の言葉にはない一つの言葉を補ってみると、道元が何を言いたいのかよく分かる。その補助線が「なりきる」だとわたしは思っています。
道元は、生死を超越しようなどと思わず、仏になりきってしまえばいいと言っています。前回の蜘蛛の糸の譬えで言えば、下からのぼってくる人のことなど気にせず、蜘蛛の糸になりきってしまえばいいということです。そしてこの「なりきる」も、仏の世界に溶け込んでいくということで、身心脱落と同じ意味です。
■『NHK100分de名著 道元 正法眼蔵』より
- 『NHK 100分 de 名著 道元 『正法眼蔵』 2016年 11月 [雑誌] (NHKテキスト)』
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