青木喜久代八段、臨月で放った無心の一手

撮影:小松士郎
『NHK 囲碁講座』の連載「シリーズ 一手を語る」に女流棋士が初登場です。青木喜久代(あおき・きくよ)八段は「ほとんど記憶に残っていない碁が多い」と笑う、おおらかなお人柄。今回は「この碁だけは忘れることができない」という一局から、特に印象深い一手を語っていただきました。

* * *


■3年連続のタイトル戦

2002年の女流名人戦の第2局から、今回の一手を選びました。タイトルを取った対局の中でも、いちばん思い出深い碁です。当時私は妊娠していて、臨月に入っていたのですね。ですからいつ生まれてもおかしくない状況。そのうえ、負けると1週間後に第3局を打たなければいけない。「生まれたらどうしよう」と思っていて、対局日まで、「まだ出てこないでね」(笑)と言い聞かせながら毎日を過ごしていました。
二人目の子どもでしたので、妊娠しているときの対局という経験はあったのですが、タイトル戦では初めて。何かあってはいけないという責任感もありますし、やはりふだんの対局とは緊張感が全く違いました。大変でしたけれど、お相手の小林泉美さんもやりにくかったと思います。
同じ女流名人戦で、2年前に泉美さんの挑戦を受けたときは防衛。前年は泉美さんにタイトルを譲り、その年は私が挑戦者。3年連続の泉美さんとのタイトル戦でした。
でも、取り返すぞというような気負いは全くなかったのですね。無事に打てるように。そのことだけに専念していました。泉美さんは9つ年下で、「泉美ちゃん」と呼んでいます。そのころ、男性棋士にも強くて、一般棋戦の予選も勝ち上がって勢いがありました。地にカラい棋風で、力も強い。私とは碁の考え方がだいぶ違うので、泉美さんの手がなかなか想像できず、「苦手かな」という意識もありました。ふだんなら、少し「嫌だな」という思いも湧いたかもしれません。
1局目に勝っていましたので、2局目の中盤あたりになると形勢判断をして、大体は邪念が入ってくるものなのですね。勝てそうだなと思うと、守りに入ったり、手が見えなくなったり、という経験は多々あります。
ところがこの碁では、勝ち星への執着というものは全くありませんでした。碁だけに集中できる精神状態。一手一手が、自然に湧いてくる感じで、そのときは本当に不思議な感覚でした。
そういう中だったので、今回の「一手」がひらめいたのかな、と思います。いつもは邪念でいっぱいなのですが(笑)、この手だけは無心で打てた気がします。
では、局面をご覧ください。

下辺から中央にかけて黒模様が大きく広がりそうな場面で、この黒がどのくらいまとまるかが焦点です。ここで、泉美さんが、黒65から67と強手を放ってきました。
1図の白1のノビが第一感ですが、黒2と打たれると黒模様がかなり雄大になります。続いて白aと切っても黒bと頑張られますし、白1、黒2を交換してから白cとコスんでも、黒dとカケツがれて後続手段がありません。 
こうなるとこのあとの展開は、この黒模様をどのように、また、どのくらい減らせばよいのかが難しくなります。勝負はどうなっていたか分かりません。
2図の白68のコスミが、私が打った一手です。今、改めて見ても、ちょっと気が付きにくい手。なかなかうまいなと自分でも感心しました(笑)。この手の意味は…。

3図の黒1のハネ出しが気になりますが、白2と切り、黒5までとなると、白6の切りから10とカケる手があります。黒15までとシボって白は厚い形。白16と堂々と消しては黒がいけません。

そこで、4図の黒3と抜くしかありませんが白も4と抜いて、黒の包囲網を破った白は強い姿。左上の黒もまだ弱い石です。この図も黒が大変そう。

つまり、実戦の白68は、黒1とハネ出す手を間接的に封じているのですね。対局中はさほど「いい手を打った」というふうに感じていませんでしたが、泉美さんが長考されて困っている様子だったのは覚えています。
実戦は、5図の黒69のアテを選ばれました。白70とツイだときに、黒71のハネ出し。このあと4図と同じように白a、黒b、白cと打てば、黒dとツイでコウになります。黒は、この形を目指したわけです。

でも、この進行なら、白はaとは切らず、6図の白72とノビることができます。黒77までとなったときに、白78と黒一子をゲタで取れるからです。

このときに▲(黒丸に三角)と△(白丸に三角)の交換が黒の悪手になっているのがお分かりいただけると思います。この交換がなければ、白から黒一子を取る手段がないところですから。
白78まで、左上の白地は荒らされましたが、中央の白が厚く黒模様も消えました。白地が減った分より、白が厚くなった価値が大きく、この時点ではっきり優勢を確立することができました。

■無心──不思議な体験

この対局に勝ったときは、タイトルを取れた喜びより、無事に終わった安ど感のほうが大きかったです。対局が終わると、今度は「早く生まれてこい」と言い聞かせました。子どもにしてみれば、困ったものですよね。
今振り返っても、とても不思議な体験です。この「一手」を打てたときの無心の状態を忘れないようにしようと思ったのですが、子どもが生まれて自分一人だと、やはり邪念が湧いてきてしまうのですね。そもそも「忘れないようにしよう」と考えていること自体が無心ではありませんし…(笑)。
私にとっては、大変だったということももちろんありますが、ほかに何も考えず、碁だけに集中するあのような心境になれたということで、棋士になってから最も印象深い対局ですし、「一手」です。
二人目が生まれて、とても忙しくなりましたが、いろいろなことに気が付くようになり、見る目が広くなったような気がしています。これからは、邪念は消えなさそうですが、自分が思っている手を思い切り、自分を信じて打っていきたいなと思います。
■『NHK囲碁講座』2016年10月号より

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