井山裕太七冠の師匠愛

イラスト:石井里果
井山裕太七冠が尊敬する棋士として公言しているのが趙 治勲名誉名人。「悪い気はしません」とまんざらでもない趙 治勲名誉名人が、井山七冠から感じる愛の正体とは?

* * *

井山裕太からは愛を感じます。あったかい愛を。碁を打つと情け容赦なくやっつけられますが、なんていうかな、愛を感じるんですよ。
自慢じゃないけど、ぼくのことを尊敬しているって公言しているみたい。あぜんとしたね。井山はどこか悪いんじゃないかと心配になったですよ。だったら対局のときに証明してもらいたいものだけど(笑)。まあ、悪い気はしません。ただ、快く思っていない人物がぼくの知る範囲で一人だけいました。井山の師匠、石井邦生九段です。
「師匠は私なのに趙治勲が好きだとか、尊敬しているとか言い回っているらしい。本当に困ったやつだ。師匠はこの私なのになあ」と少々ご立腹みたい(笑)。でも、石井さんに伝えてあげたい。井山は誰よりも、心の底からあなたを敬っていますよ、と。
石井さんに対する尊敬と感謝の気持ち、それに愛は、とても強く感じます。何年前だったか、井山の防衛戦の立会人を引き受けたときのことです。対局前日の移動の際、タクシーに井山と一緒に乗りました。するとね、彼がこう話しかけてきたんです。
「うちの師匠が今度当たることになったので、よろしくお願いします」いつも鈍感なぼくも、このときはすぐに察しがつきました。石井さんとどこかの棋戦で対局する予定なんだと。対戦相手はいつも見ないことにしています。知ってしまうとあれこれ余計な神経を遣うことになりそうだからね。意外にデリケートなんですよ。その場は、「ああ、そうなんだよねえ」と話を合わせてなんとか取り繕うことができました。それにしてもプレッシャーだったなあ。「ぜひ負けてください」と迫られているようで(笑)。
タクシーの中の会話は宿に着くまで途切れることはありませんでした。こんなにしゃべる井山は珍しいなあと思いました。どちらかと言えば物静かなイメージがあるけれど、ずっと話していたなあ。それも自分のことじゃなく、石井さんの話題ばかり。最近は健康のためにこんなことしているとかダジャレのキレがいまいちだとか。ぼくにはどうでもいいことだけど(笑)、とにかく石井さんオンリーでした。
でね、あることに気付いたんですよ。井山の話の初めには必ず「うちの師匠…」とのひと言が、まるで枕ことばのようにくっついてくるの。これって愛ですよね、間違いなく。もともとは他人の石井先生と井山が囲碁を通じ、ある意味身内以上のつながりを築いた。安っぽい言葉だけど、絆(きずな)というのかな、こういうのは。そこには愛が存在しないわけがありません。
七冠王の井山がそれほど慕う石井邦生とは何者か。人柄、碁の考え方、碁の質、すべてに文句の付けようがありません。ぼくに言われてもうれしくないだろうけどね。タイトルに恵まれなかったのはたまたまです。お世辞ではありません。ぼくは盤上のことに関しては思ったことだけを言います。
石井さんの碁は「正直」でできている、こんなふうに思います。「だます」という概念を全く感じさせない棋風でね。囲碁の長い歴史をそのまま受け継いでいるような、伝統的な碁です。勝つためにではなく、芸を磨くために対局すると言ったらぼくの見立てが皆さんにうまく伝わるかなあ。そうそう、石井さんにタイトル運がなかったのは、弟子の井山のためだったんじゃないか、そんな気もしています。
対局したこともあります。碁盤を挟んだだけの至近距離で、しかも長い時間一緒にいる。こういう状況だと人柄や性格などは、隠しても隠しきれないものなんですよ。にじみ出てくるものってあるでしょ? そういうところも石井さんは大変尊敬できます。
ただ一つ問題があるらしく…。聞くところによると昔からダジャレが好きなんだとか。論評は控えます。
■『NHK囲碁講座』2016年9月号より

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