親鸞とその思想

『NHK100分de名著』4月号は『歎異抄』を取り上げています。浄土真宗の開祖である親鸞の没後二十数年が過ぎた頃、門弟の一人が師から直接聞いた言葉を書き留めたもの、という体裁がとられた『歎異抄』は、古くから多くの人を魅了してきました。『歎異抄』を読み解く前に、如来寺住職・相愛大学教授の釈徹宗(しゃく・てっしゅう)さんが親鸞の人物像を紹介します。

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親鸞は、承安(じょうあん)三年(1173)に下級貴族・日野有範(ありのり)の長男として京都に生まれました。両親とは幼少期に死別したと伝えられてきましたが、最近の研究では父は後年まで生存したとされています。九歳で仏門に入り、比叡山で二十年間の修行を続けます。建仁(けんにん)元年(1201)、二十九歳の親鸞は比叡山から京都の六角堂まで、百日間の参籠をします。そして夢告(むこく)を受けて、法然(ほうねん)の門下に入るのです。
承元(じょうげん)元年(1207)、いわゆる「承元の法難」に遭って越後の国府(現・新潟県上越市)へ流されます。その四年後に放免されるものの京都には戻らず、常陸国を中心に教化活動に専念。主著『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい/教行信証)』の草稿をほぼ完成させたのもこの地です。しかし六十歳を過ぎて、親鸞は長きにわたり親しんだ常陸の地を離れて帰洛します。
八十四歳で息子の善鸞(ぜんらん)を義絶したことも、その生涯を語るうえで欠かせない逸話です。京都に帰った後の関東で、法然の教えとは異なる勝手な解釈が広まっていることを歎いた親鸞は、かの地に息子を送りました。ところがその地で善鸞は人々の歓心を買うためか、勝手な自説を展開したようです。それを知った親鸞は善鸞と親子の縁を切ったのです。その後も旺盛に著述活動を行った親鸞でしたが、弘長(こうちょう)二年(1262)、九十歳でこの世を去ります。
親鸞が仏教の道を歩んだ平安末期から鎌倉時代にかけては、日本の社会構造が大きく変化した時代でした。貴族による摂関政治から武家社会へと転じ、経済事情も法律も変わっていきます。なおかつ、大火や震災、飢饉(ききん)などの天変地異に人々が苦しんだ時代でもありました。そうした状況を反映して流布したのが、「末法思想」です。釈迦の入滅後、一定期間が過ぎると仏教の力が衰えるとして、すでに末法の時代という最終段階(形骸化した教えになってしまう時代)にあると考えられていました。
そうした社会状況を背景に、法然が説いた平易な念仏の道筋はあらゆる階層の人々のあいだに広まっていきます。法然の教えはシンプルで、「阿弥陀仏の本願によって誰でも浄土に往生できる。厳しい修行などできない凡人は仏の名を称えよ(称名念仏〈しょうみょうねんぶつ〉)」というものでした。誰もが実践できる「易行(いぎょう)」であることが大きなポイントです。
しかも、法然はずば抜けて論理的で頭の明晰(めいせき)な高僧でしたので、称名念仏までのプロセスをわかりやすくフローチャート化してみせたのです(三選〈さんせん〉の文〈もん〉)。商売人でも、家族持ちでも、在家でも、どんな生活の形態をとっていても救われるのだという法然の教えは、それまで人々が感じていた不安の呪縛を解き、精神的な解放をもたらします。こうして浄土仏教は、非力な、弱者のための宗教として広く受容されることになりました。
一方の親鸞は、法然という師に出遇わなければ、大きな花を咲かせることはなかったような人です。なにせ二十年間も比叡山で修行しながら、まだ悩み続けていた人ですから。法然と親鸞の思想の比較としては、一般的には、法然は「念仏重視」、親鸞は「信心重視」と言われます。もちろん親鸞が念仏を軽視していたという意味でなく、一つのものの表裏と考えてください。親鸞は、法然の教えを受けて家庭を持って暮らしました。そして、家庭を持ったがゆえの苦悩にもさらされました。世俗にまみれ、泥中を這うような生活のなかから、のちの浄土真宗の礎(いしずえ)となるものを立ちあげていくのです。
■『NHK100分de名著 歎異抄』より

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