司馬遼太郎が描きたかったリーダー像
歴史家・静岡文化芸術大学教授の磯田道史(いそだ・みちふみ)氏が司馬遼太郎作品の中で最高傑作であると評する『花神』は、長州藩の村医者の息子として生まれながら蘭学・洋学・兵学などを学び、やがて新政府軍を率いて戊辰戦争を勝利に導いた大村益次郎の生涯を描いている。司馬は大村の視点を通して、江戸時代を明治にしたものは何かについて探究した。その人物像について、司馬がどのように語っているかを見ていこう。
* * *
■合理主義の信徒・大村益次郎
「無口な上に無愛想で、たとえば上野の口の攻囲戦のとき、最激戦地と予想される広小路口の攻撃を薩軍にわりあてた。軍議の席上、西郷があきれて、『薩軍をみな殺しになさる気か』と問うと、『そうです』と答えたという」(『この国のかたち』四、80「招魂」)
「大村は、農民の出でもあって、諸藩の士がもつ藩意識には鈍感で、むしろ新国家の敵と心得ていた。/武士をさえ、尊敬しなかった」(同前)
ここで描かれているのは、大村の、信長をさらに発展させたような合理主義です。身分制度にも大して興味がなく、便利であれば、既存の価値を捨ててすぐに新しい方に乗り換える。高度経済成長期の一九六〇年代から七〇年代にかけて、復員軍人をはじめ戦争体験のある世代には、こうした大村の在り方への共感はとても強かったと思います。
解剖学者の養老孟司さんが次のようなことをおっしゃっていました。日本人というのは、とにかく戦争で目に見えない「思想」というものに痛めつけられた。神州不滅──日本は神の国だとか、七生報国──七回生まれ変わっても国に尽くすといった思想をさんざん吹き込まれ、ひどい目に遭った。だから、ちゃんと目に見える、即物的なものを強く信じる合理的な世代が生じて、高度経済成長期のときに一気に物質文明に向かったのだ──と。
非常に説得力のある指摘だと思います。司馬さんもそのひとりだったのかもしれません。司馬さん自身が、敵味方の戦力の差や戦車や軍艦の性能を比較して論じるのではなく、「精神力で突撃せよ」という非合理的な精神論で戦車に乗せられ、九死に一生を得たわけです。であればこそ、即物合理主義を訴える必要と、それを重んじる哲学を抱くに至ったのです。その体現者として、司馬さんは大村益次郎に出会った。非合理的な組織と化した日本陸軍をつくった非常に合理的な人物──。それが『花神』という傑作を生み出した原動力だと私は思うのです。
司馬さんは、「自分たちは井伊家の軍隊のようであった」と語っています。敵の弾の標的にしかならないような派手な「赤備(あかぞな)え」の甲冑(かっちゅう)を着て、密集陣形でゆっくりと進んで行くイメージです。それでは合理的な西洋式の軍隊に勝てるわけがありません。合理主義の権化(ごんげ)である大村がつくったもともとの日本陸軍はそうではなかったはずだ。陸軍がその誕生時には持っていたはずの合理性はどこへ行ったのだ──という怒りとともに、司馬さんは『花神』を描いたのでしょう。
「組織は変質する」というのも、司馬さんの重要な歴史観のひとつです。最初は理想があるけれども、だんだん老化して、おかしなことをおこない始めるという、古今東西、あらゆる組織や人物に言えることです。時代も同じように、だんだん変質してくる。その変質を歴史の動態、ダイナミズムとして、ここに表現したのだと思います。
司馬さんは、『花神』のあとがきにこう書いています。
「要するに蔵六(大村)は、どこにでもころがっている平凡な人物であった。/ただほんのわずか普通人、とくに他の日本人とちがっているところは、合理主義の信徒だったということである」(下巻)
大村が宇和島藩の依頼で国産蒸気船をつくり上げたときのこと。藩主・伊達宗城(むねなり)を乗せた試験運転の際、船が進み始めたことに興奮した家老の松根図書(ずしょ)が語りかけます。
「『村田、進んでいるではないか』/と、ふりかえって叫んだ。が、蔵六は悪いくせが出た。/『進むのは、あたりまえです』/これには松根もむっとしたらしい」(上巻)
大村の合理主義は、ときに人の神経を逆撫でするようなところがある。しかし司馬さんは、そんな大村の、他者と軋轢(あつれき)を生みかねない「他の日本人とちがっているところ」を書くことによって、合理主義者が時代を変革する力を描き出すのです。変動期には大村のような合理主義的な人物が登場して日本を導くが、静穏期に入ると日本人はとたんに合理主義を捨て去る。この繰り返しであることを、司馬さんは言外に訴えています。
大村は、その徹底した合理主義でもって時代を動かすリーダーとなりえました。もうひとつ、リーダーシップに欠かせない要素が「無私の精神」、つまり自分を勘定に入れない客観性です。しかし、この客観性というものは、一面で共感性や情緒の欠如をもたらします。この二つが欠けていては「いびつ」な人間と言えますが、そのような人物でなくして、合理性を失った日本社会を変革させることはできない。それは、残虐な信長でなければ、戦国期の日本社会を変えられなかったことと同じです。日本人のある種の病根の深さをうかがい知ることができます。
大村益次郎は、「思想」から大きく距離をとった人物でした。現実的にそれが効くか効かないか、便利か不便かということだけでものごとを判断する。そうしたリアリズムや合理性というものが、最終的に勝利を収める、時代を動かすと司馬さんはとらえたのだと思います。
■司馬遼太郎の描いたリーダー像
司馬さんが描きたいリーダー像というのは、国を誤らせない、集団を誤らせない、個人を不幸にしない、ということに尽きると思います。その対極にあるのが、過去からの伝統にとらわれて一歩も出られない人物や組織の在り方であり、合理主義とは相容れない偏狭な「思想」にかぶれて、仲間内だけでしか通用しない異常な行動を平気でとってしまう人や集団です。
たとえば、長州藩で言うと、「狂」の一字が象徴的です。自分たちのイデオロギッシュな行動を「狂挙」と謳(うた)い、楠木正成の湊川の故事などを持ちだして自らと重ねて自己陶酔する。挙句に泣きながら「勤王をやる」と言いだす。結果として蛤御門の変を起こし、天皇を守るどころか、京都市中の二万八千戸あまりが焼失する大火を引き起こし、天皇に嫌われ、朝敵にされてしまう。司馬さんはこのときの長州の「思想」や「ドグマ」に偏重した組織の在り方、精神性に、のちの昭和の陸軍の原型を見ていた気がします。
この動きを一気に変え、合理主義でもって時代を変革したのは武士ではなく、大村のような村医者であり、奇兵隊に象徴される諸隊に参加した庶民でした。したがって、司馬さんが考えるリーダー像とは、思想で純粋培養された人ではなく、医者のような合理主義と使命感を持ち、「無私」の姿勢で組織を引っ張ることのできる人物だったと言えます。
その根っこには、「思想」や「ドグマ」を掲げて合理主義を見失い、国を危機に陥らせ、自分たちを戦場に送り出した人々への反発、反省というものがあったと思うのです。
■『NHK100分de名著 司馬遼太郎スペシャル』より
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■合理主義の信徒・大村益次郎
「無口な上に無愛想で、たとえば上野の口の攻囲戦のとき、最激戦地と予想される広小路口の攻撃を薩軍にわりあてた。軍議の席上、西郷があきれて、『薩軍をみな殺しになさる気か』と問うと、『そうです』と答えたという」(『この国のかたち』四、80「招魂」)
「大村は、農民の出でもあって、諸藩の士がもつ藩意識には鈍感で、むしろ新国家の敵と心得ていた。/武士をさえ、尊敬しなかった」(同前)
ここで描かれているのは、大村の、信長をさらに発展させたような合理主義です。身分制度にも大して興味がなく、便利であれば、既存の価値を捨ててすぐに新しい方に乗り換える。高度経済成長期の一九六〇年代から七〇年代にかけて、復員軍人をはじめ戦争体験のある世代には、こうした大村の在り方への共感はとても強かったと思います。
解剖学者の養老孟司さんが次のようなことをおっしゃっていました。日本人というのは、とにかく戦争で目に見えない「思想」というものに痛めつけられた。神州不滅──日本は神の国だとか、七生報国──七回生まれ変わっても国に尽くすといった思想をさんざん吹き込まれ、ひどい目に遭った。だから、ちゃんと目に見える、即物的なものを強く信じる合理的な世代が生じて、高度経済成長期のときに一気に物質文明に向かったのだ──と。
非常に説得力のある指摘だと思います。司馬さんもそのひとりだったのかもしれません。司馬さん自身が、敵味方の戦力の差や戦車や軍艦の性能を比較して論じるのではなく、「精神力で突撃せよ」という非合理的な精神論で戦車に乗せられ、九死に一生を得たわけです。であればこそ、即物合理主義を訴える必要と、それを重んじる哲学を抱くに至ったのです。その体現者として、司馬さんは大村益次郎に出会った。非合理的な組織と化した日本陸軍をつくった非常に合理的な人物──。それが『花神』という傑作を生み出した原動力だと私は思うのです。
司馬さんは、「自分たちは井伊家の軍隊のようであった」と語っています。敵の弾の標的にしかならないような派手な「赤備(あかぞな)え」の甲冑(かっちゅう)を着て、密集陣形でゆっくりと進んで行くイメージです。それでは合理的な西洋式の軍隊に勝てるわけがありません。合理主義の権化(ごんげ)である大村がつくったもともとの日本陸軍はそうではなかったはずだ。陸軍がその誕生時には持っていたはずの合理性はどこへ行ったのだ──という怒りとともに、司馬さんは『花神』を描いたのでしょう。
「組織は変質する」というのも、司馬さんの重要な歴史観のひとつです。最初は理想があるけれども、だんだん老化して、おかしなことをおこない始めるという、古今東西、あらゆる組織や人物に言えることです。時代も同じように、だんだん変質してくる。その変質を歴史の動態、ダイナミズムとして、ここに表現したのだと思います。
司馬さんは、『花神』のあとがきにこう書いています。
「要するに蔵六(大村)は、どこにでもころがっている平凡な人物であった。/ただほんのわずか普通人、とくに他の日本人とちがっているところは、合理主義の信徒だったということである」(下巻)
大村が宇和島藩の依頼で国産蒸気船をつくり上げたときのこと。藩主・伊達宗城(むねなり)を乗せた試験運転の際、船が進み始めたことに興奮した家老の松根図書(ずしょ)が語りかけます。
「『村田、進んでいるではないか』/と、ふりかえって叫んだ。が、蔵六は悪いくせが出た。/『進むのは、あたりまえです』/これには松根もむっとしたらしい」(上巻)
大村の合理主義は、ときに人の神経を逆撫でするようなところがある。しかし司馬さんは、そんな大村の、他者と軋轢(あつれき)を生みかねない「他の日本人とちがっているところ」を書くことによって、合理主義者が時代を変革する力を描き出すのです。変動期には大村のような合理主義的な人物が登場して日本を導くが、静穏期に入ると日本人はとたんに合理主義を捨て去る。この繰り返しであることを、司馬さんは言外に訴えています。
大村は、その徹底した合理主義でもって時代を動かすリーダーとなりえました。もうひとつ、リーダーシップに欠かせない要素が「無私の精神」、つまり自分を勘定に入れない客観性です。しかし、この客観性というものは、一面で共感性や情緒の欠如をもたらします。この二つが欠けていては「いびつ」な人間と言えますが、そのような人物でなくして、合理性を失った日本社会を変革させることはできない。それは、残虐な信長でなければ、戦国期の日本社会を変えられなかったことと同じです。日本人のある種の病根の深さをうかがい知ることができます。
大村益次郎は、「思想」から大きく距離をとった人物でした。現実的にそれが効くか効かないか、便利か不便かということだけでものごとを判断する。そうしたリアリズムや合理性というものが、最終的に勝利を収める、時代を動かすと司馬さんはとらえたのだと思います。
■司馬遼太郎の描いたリーダー像
司馬さんが描きたいリーダー像というのは、国を誤らせない、集団を誤らせない、個人を不幸にしない、ということに尽きると思います。その対極にあるのが、過去からの伝統にとらわれて一歩も出られない人物や組織の在り方であり、合理主義とは相容れない偏狭な「思想」にかぶれて、仲間内だけでしか通用しない異常な行動を平気でとってしまう人や集団です。
たとえば、長州藩で言うと、「狂」の一字が象徴的です。自分たちのイデオロギッシュな行動を「狂挙」と謳(うた)い、楠木正成の湊川の故事などを持ちだして自らと重ねて自己陶酔する。挙句に泣きながら「勤王をやる」と言いだす。結果として蛤御門の変を起こし、天皇を守るどころか、京都市中の二万八千戸あまりが焼失する大火を引き起こし、天皇に嫌われ、朝敵にされてしまう。司馬さんはこのときの長州の「思想」や「ドグマ」に偏重した組織の在り方、精神性に、のちの昭和の陸軍の原型を見ていた気がします。
この動きを一気に変え、合理主義でもって時代を変革したのは武士ではなく、大村のような村医者であり、奇兵隊に象徴される諸隊に参加した庶民でした。したがって、司馬さんが考えるリーダー像とは、思想で純粋培養された人ではなく、医者のような合理主義と使命感を持ち、「無私」の姿勢で組織を引っ張ることのできる人物だったと言えます。
その根っこには、「思想」や「ドグマ」を掲げて合理主義を見失い、国を危機に陥らせ、自分たちを戦場に送り出した人々への反発、反省というものがあったと思うのです。
■『NHK100分de名著 司馬遼太郎スペシャル』より
- 『司馬遼太郎スペシャル 2016年3月 (NHK100分de名著)』
- 磯田 道史 / NHK出版 / 566円(税込)
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