信じることは諸刃の剣

キリスト教信徒である著述家内村鑑三(うちむら・かんぞう)は『代表的日本人』の最後を、異教の先師である日蓮で締めくくった。批評家の若松英輔(わかまつ・えいすけ)氏は、「内村自身が日蓮の使命をそのまま生きているような口ぶりで語っているのが、とても印象的」だと語る。内村の宗教観について、若松氏が『代表的日本人』を読み解く。

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五人目に内村が選んだのが日蓮だったことに驚く人も少なくないかもしれません。キリスト信徒である内村がなぜ仏教徒である日蓮を選んだのか、という疑問は当然だと思います(ちなみに内村の弟子である矢内原忠雄は、彼にとっての『代表的日本人』にあたる『余の尊敬する人物』とその続篇の中で、日本人では内村や新渡戸稲造とともに日蓮を挙げています)。
ここでまず考えられるのは、異なる宗教と宗教の出会いが秘めている可能性です。内村と日蓮という宗教的にも、人生においても苛烈な生涯を生きた者同士が、時代を経て出会っている──それは、諸宗教間の対話は、宗派どころか、時空を超えても行い得るということを提示しているように思います。今なお宗教間の対立を抱えて生きる今日の私たちにとって、とても示唆的なことではないでしょうか。

■人はみな何かを信じて生きている

最初に取り上げたいのは、人間にとって「宗教」とは何かという問題です。宗教は人間の最大関心事であります。正確に言うならば、宗教のない人間は考えられません。私どもは、自分の能力をはるかにこえる願いごとをもち、世の与えうるよりも、はるかに多くのものを望むという、妙な存在なのです。この矛盾を取り除くためには、行動はともかく、少なくとも思想の面でなにかをしなければなりません。
現代では「宗教」は、ほとんど「宗派」と同じ意味に用いられていますが、内村の時代は違います。少なくとも第二次大戦前まではそうでした。ここで内村がいう「宗教」はさまざまな宗派のもととなるようなもの、宗派の差異を超えて、大いなるものと人間の交わりを指しています。
個別の宗派に属していなくても人は、誰も、どこかで大いなるものの存在を感じている。だからこそ、「宗教」がないということは考えられない、と内村は言うのです。
だれそれは「無宗教」の人であるという話はたびたび聞かれます。しかしそれは、その人たちが、特定の教義を奉じているわけではなく、導かれる教団もなく、神として、木や金属でできたりまたは心に浮かべた像を崇拝していない、というだけの話にすぎません。それにもかかわらず、その人々にも宗教はあるのです。その内部にある「不可思議なもの」は、ただ「拝金主義」とか「お神酒」とか、あるいはまた、ほかの自分流の催眠術や鎮静術によるものにせよ、あの手この手を用いて押しこめられているだけなのです。人間の宗教は、人生の人間自身による解釈であります。人生になんらかの解釈を与えることは、このたたかいの世に安心して生活するためには、ぜひとも必要なものなのです。
教義や教団、あるいは教祖といった「宗派」にはなくてはならないものが、一切なかったとしても「宗教」は存在する。自分を満たしてくれる「不可思議なもの」があって、それを信じているとすれば、宗教という名前を与えるか与えないかは別にして、人はみなそれを信じて生きていることになる。
最後の一節に「このたたかいの世」とありますが、生きていくことを闘いとする、とても内村らしい言い方です。あわせて、宗教は「安心して生活するため」に「ぜひとも必要」なものだとも言っています。
ここで内村は、何でもよいから信じればいいと言っているのではありません。むしろ、ある意味では信じることの恐ろしさを語ってもいます。
信じることは諸刃の剣です。信じる力は強い。だからこそ、何を信じるかを人間は慎重に考えなくてはならない。信じるという行為はなくてはならないけれど、それがある方向に向かったとき、人はとんでもないことをしでかすことがある。だが、あまりに慎重になって、信じるという働きが、自分に宿っていることを忘れてもいけないというのです。慎重に信じよ、それは、日蓮の物語を書くにあたって内村が最初に読者に訴えていることです。
■『NHK100分de名著 内村鑑三 代表的日本人』より

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