巨大な題と極小の題、それぞれの魅力
『NHK俳句』テキストに連載中の講座「びっくりして嬉(うれ)しくなる俳句」では、俳人の池田澄子(いけだ・すみこ)さんが、読んでみてハッとするような驚きの発見がある俳句を紹介しています。1月号は兼題「去年今年(こぞことし)」をテーマに、同じ俳人が詠んだ「巨大な題」と「極小の題」を合わせて鑑賞します。
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「去年今年(こぞことし)」──こういう季語、というより言葉、素敵ですね。
越年という意識は人間だけのもので、それだけでもずいぶん素敵な、人間ならではの認識だと思っています。何かが目に見えて現れたり消えたり、あるいは変化したりするわけではなくて、本当は何も変わらない、何も現れないことなのですからお洒落(しゃれ)です。思わなければ、日が沈んで夜になって朝日が昇って今日になる、というだけのことです。
越年という認識は人間ならではのことだなあと、毎年感激します。そしてさらに、「去年今年」という認識はそれ以上に繊細で素敵です。越年の直前までの去年を思うだけでなく、新年のことだけでもない、その双方の流れを思っているのですから。
この言葉を知る前の私には、昨日と今日、去年と今年、あるいは昨日から今日、旧年から新年に替わる瞬間、しか考えられなかったような気がします。
去年今年貫く棒の如(ごと)きもの
歳時記を手許(てもと)に置くようになって、最初に驚き、最初に感激し、記憶した句の中の一つだったと思います。一読、覚えてしまえるところも素晴らしいです。ここには、これと言って何もないのです。棒もありません。「棒の如きもの」を思っているだけです。でもそのあやふやな、思われている棒のようなものが、ぬーっと存在を主張してやまないのです。それは日本だけでなく、世界中、いえ、地球だけではない宇宙のなかでの景のような気がしてしまいます。
美しく神秘的で、それでいて実感としてぬーっと在(あ)る、棒ではない「棒の如きもの」。なんという大きな景。宇宙の果てしない暗闇までも思われてきます。
去年今年一時か半か一つ打つ
前の句と同じ人が詠んだ句ですが、こちらはまぁなんと些細(ささい)なこと。十二時半、一時、一時半、その度に柱時計は一つ鳴ります。些細すぎて驚きます。虚子が、これを一句にしようと気付いたこと、その微細ゆえの大胆さに感動してしまうのです。
こういう些細な主題が、前の句の広さ深さに見劣りしないところが俳句の面白さで、そのことに私は感動します。
■『NHK俳句』2016年1月号より
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「去年今年(こぞことし)」──こういう季語、というより言葉、素敵ですね。
越年という意識は人間だけのもので、それだけでもずいぶん素敵な、人間ならではの認識だと思っています。何かが目に見えて現れたり消えたり、あるいは変化したりするわけではなくて、本当は何も変わらない、何も現れないことなのですからお洒落(しゃれ)です。思わなければ、日が沈んで夜になって朝日が昇って今日になる、というだけのことです。
越年という認識は人間ならではのことだなあと、毎年感激します。そしてさらに、「去年今年」という認識はそれ以上に繊細で素敵です。越年の直前までの去年を思うだけでなく、新年のことだけでもない、その双方の流れを思っているのですから。
この言葉を知る前の私には、昨日と今日、去年と今年、あるいは昨日から今日、旧年から新年に替わる瞬間、しか考えられなかったような気がします。
去年今年貫く棒の如(ごと)きもの
高浜虚子(たかはま・きょし)
歳時記を手許(てもと)に置くようになって、最初に驚き、最初に感激し、記憶した句の中の一つだったと思います。一読、覚えてしまえるところも素晴らしいです。ここには、これと言って何もないのです。棒もありません。「棒の如きもの」を思っているだけです。でもそのあやふやな、思われている棒のようなものが、ぬーっと存在を主張してやまないのです。それは日本だけでなく、世界中、いえ、地球だけではない宇宙のなかでの景のような気がしてしまいます。
美しく神秘的で、それでいて実感としてぬーっと在(あ)る、棒ではない「棒の如きもの」。なんという大きな景。宇宙の果てしない暗闇までも思われてきます。
去年今年一時か半か一つ打つ
高浜虚子
前の句と同じ人が詠んだ句ですが、こちらはまぁなんと些細(ささい)なこと。十二時半、一時、一時半、その度に柱時計は一つ鳴ります。些細すぎて驚きます。虚子が、これを一句にしようと気付いたこと、その微細ゆえの大胆さに感動してしまうのです。
こういう些細な主題が、前の句の広さ深さに見劣りしないところが俳句の面白さで、そのことに私は感動します。
■『NHK俳句』2016年1月号より
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