「白パン」から伝わる幸福感

『NHK短歌』の連載「短歌de胸キュン」の2015年12月号のテーマは「パン」。「未来」選者の佐伯裕子(さえき・ゆうこ)さんが、パンの持つ不思議な幸福感を内包した歌を紹介します。

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町を歩いていると、焼きたてのパンの匂いが漂ってきたりします。パン屋の店先からです。気持ちが沈んでいる時など、その匂いで何かしら心がふわっと軽くなります。明日も明後日もその次の朝も、香ばしいパンを食べる明るさが想像されるのです。その感じは、ご飯や味噌汁とは異なるもののように思います。
わたしが育った昭和三十年代のパンといえば、食パン、コッペパン、玄米パン、菓子パンぐらいでした。日本がアメリカナイズされていく戦後の日々です。パン食は憧れでもありました。母がパンを焼いてくれる日、家中に広がる香ばしい匂いが言いようのない幸せを運んでくれたものです。疲れた時、悲しい時、パンの匂いに救われた人は多いのではないでしょうか。永遠につづく日常に柔らかく包まれる感じ、というのでしょうか。パンには、不思議な幸福感があるように思われてなりません。
白パンの肌やはらかしかかるものありと知らざりし子に切りてゐる

五島美代子『丘の上』


歌集『丘の上』は、終戦直後の昭和二十三年に出版されました。戦前のヨーロッパに長く逗留(とうりゅう)した経験をもつ作者です。パンには「白パン」と「黒パン」があることを強調しています。古くは、ライ麦や雑穀で作られた固い黒パンは貧しい人々のパンで、小麦粉の柔らかい白パンは裕福な家のものでした。例えば、十九世紀末に書かれた小説『ハイジ』(ヨハンナ・シュピリ)で、羊飼いの少年ペーターの祖母にハイジが食べさせたいと願ったのが「白パン」です。この一首の「白パン」も、黒パンに対する上等のパンを強調しています。さらには、食べたことのない子が喜ぶような、ハイジの丸い白パンが想像されてきます。作者は、パンのもつ西欧の文化と、豊かな幸せを教えたかったのでしょう。
■『NHK短歌』2015年12月号より

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