縁に任せ、清貧を貫く
出家後の良寛は、越後国出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)の名主・橘屋山本家の長男として生まれた。元服後に名主見習いとなるが、世渡り下手で精神的にも強くなかったことから家業を捨て、幼い頃に寺子屋として通っていた光照寺に逃げ込む。4年間の修行を経て、22歳で得度(とくど/僧侶になるための出家の儀式)を受けた良寛はその後、「縁に身を任せた人生」を歩むことを決意したという。龍宝寺住職の中野東禅(なかの・とうぜん)氏が、良寛が残した文章を引きながら、その生き方について解説する。
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良寛は、「縁」に身を任せる人生を歩んでいきます。名主の家に生まれたこと、名主見習いの仕事が自分に向いていなかったこと、光照寺で学んだこと──それまでの出来事すべてが、ご縁といってもいいと思いますが、とくに出家してからの良寛は縁のままに生きている印象があります。「縁に身を任せる」というと、自分ではなにも決めないように感じられるかもしれませんが、そうではないのです。じつは逆に大きな決断力を必要とします。先がどうなるのかまったく見えない深い霧の中に決意を持って飛び込んでいくことを意味するからです。「飛び込んだ力で浮かぶ蛙かな」という句がありますが、それは縁に任せていく肚(はら)の据わりだと思います。蛙は飛び込んで、その勢いで逆に浮き上がってくるのです。
良寛の場合は、まず、名主になる道を捨てて光照寺に飛び込みますが、そのときは、ひらめきと勢いだけで何も見えていなかったはずです。小僧として修行している間も、まだ沈んでいる状態です。しかし、やがて仏教を学ぶなかで「本質」が見えてきて、ふわりと水面に浮かび上がってきます。それでようやく得度を受けて仏門に入ることになるわけです。
備中玉島の円通寺に赴いた良寛は、22歳から34歳までのおおよそ12年間、国仙和尚の指導の下、厳しい修行生活を送ることになります。玉島は、倉敷の南の入江に浮かぶ島で(現在は陸続きになっています)、大坂などに物資を運ぶための瀬戸内の水運の要所として発展した港町です。千石船を持つ豪商が多く住んでいたため、そういう人々の要請もあって円通寺が開かれたのでしょう。岩山が連なる白華山(はっかさん)の山腹に建つ円通寺は、加賀の大乗寺(だいじょうじ)の系譜にある徳翁良高(とくおうりょうこう)を招聘(しょうへい)して元禄十一年(1698)に開山した曹洞宗の寺で、国仙和尚は第十世住職にあたります。良寛は、当時の円通寺での修行の様子をこんなふうに書いています。
円通寺に来たりしより、幾回(いくかい)か冬春(とうしゅん)を経たる。衣(ころも)、垢(あか)づけば手づから濯(あら)い、食、尽きれば城闉(じょういん)に出ず。門前(もんぜん)、千家(せんけ)の邑(むら)、すなわち一人だにも識(し)らず。かつて高僧伝を読みしに、僧は可々(かなり)に清貧なりき。
(円通寺に来てから、何度かの冬と春を経験しました。衣が汚れれば自分で洗い、食べるものがなくなれば、山を下りて町や村に入り托鉢をしました。門前にはたくさんの家がありましたが、親しくなった人は一人もいません。いつだったか禅の高僧伝を読んだことがありますが、僧侶たるものはいずれも清貧に生きています)
良寛は、円通寺で修行を始めたのを機に「清貧」の意味を深く考えるようになり、「清貧こそが世間の苦悩や哀しみのもととなる“欲望を超える道”だ」と直感したのでしょう。以後、先人たちを見習って、誰よりも徹底した清貧生活を貫くことになります。いつもぼろぼろの貧しい身なりで托鉢に励んでいた良寛は、不審者に間違えられることも何度かあったようで、こんな逸話が残っています。
ある村で盗難騒ぎがあったときのこと。貧しい身なりで托鉢に出ていた良寛は、村役人に捕らえられてしまいます。もちろん、何も盗んではいませんでしたが、良寛は一言も弁明せずに黙っていました。やがて円通寺の修行僧だとわかって釈放されますが、「どうして弁明しなかったのか?」と訪ねられた良寛は「この身なりでは疑われて当然です。成り行きに任せようと思ったのです」と答えたそうです。なにごとも縁に任せることを信条とし、自らどん底を生きようとした良寛らしいエピソードだと思います。
■『NHK100分de名著 良寛詩歌集』より
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良寛は、「縁」に身を任せる人生を歩んでいきます。名主の家に生まれたこと、名主見習いの仕事が自分に向いていなかったこと、光照寺で学んだこと──それまでの出来事すべてが、ご縁といってもいいと思いますが、とくに出家してからの良寛は縁のままに生きている印象があります。「縁に身を任せる」というと、自分ではなにも決めないように感じられるかもしれませんが、そうではないのです。じつは逆に大きな決断力を必要とします。先がどうなるのかまったく見えない深い霧の中に決意を持って飛び込んでいくことを意味するからです。「飛び込んだ力で浮かぶ蛙かな」という句がありますが、それは縁に任せていく肚(はら)の据わりだと思います。蛙は飛び込んで、その勢いで逆に浮き上がってくるのです。
良寛の場合は、まず、名主になる道を捨てて光照寺に飛び込みますが、そのときは、ひらめきと勢いだけで何も見えていなかったはずです。小僧として修行している間も、まだ沈んでいる状態です。しかし、やがて仏教を学ぶなかで「本質」が見えてきて、ふわりと水面に浮かび上がってきます。それでようやく得度を受けて仏門に入ることになるわけです。
備中玉島の円通寺に赴いた良寛は、22歳から34歳までのおおよそ12年間、国仙和尚の指導の下、厳しい修行生活を送ることになります。玉島は、倉敷の南の入江に浮かぶ島で(現在は陸続きになっています)、大坂などに物資を運ぶための瀬戸内の水運の要所として発展した港町です。千石船を持つ豪商が多く住んでいたため、そういう人々の要請もあって円通寺が開かれたのでしょう。岩山が連なる白華山(はっかさん)の山腹に建つ円通寺は、加賀の大乗寺(だいじょうじ)の系譜にある徳翁良高(とくおうりょうこう)を招聘(しょうへい)して元禄十一年(1698)に開山した曹洞宗の寺で、国仙和尚は第十世住職にあたります。良寛は、当時の円通寺での修行の様子をこんなふうに書いています。
円通寺に来たりしより、幾回(いくかい)か冬春(とうしゅん)を経たる。衣(ころも)、垢(あか)づけば手づから濯(あら)い、食、尽きれば城闉(じょういん)に出ず。門前(もんぜん)、千家(せんけ)の邑(むら)、すなわち一人だにも識(し)らず。かつて高僧伝を読みしに、僧は可々(かなり)に清貧なりき。
(円通寺に来てから、何度かの冬と春を経験しました。衣が汚れれば自分で洗い、食べるものがなくなれば、山を下りて町や村に入り托鉢をしました。門前にはたくさんの家がありましたが、親しくなった人は一人もいません。いつだったか禅の高僧伝を読んだことがありますが、僧侶たるものはいずれも清貧に生きています)
良寛は、円通寺で修行を始めたのを機に「清貧」の意味を深く考えるようになり、「清貧こそが世間の苦悩や哀しみのもととなる“欲望を超える道”だ」と直感したのでしょう。以後、先人たちを見習って、誰よりも徹底した清貧生活を貫くことになります。いつもぼろぼろの貧しい身なりで托鉢に励んでいた良寛は、不審者に間違えられることも何度かあったようで、こんな逸話が残っています。
ある村で盗難騒ぎがあったときのこと。貧しい身なりで托鉢に出ていた良寛は、村役人に捕らえられてしまいます。もちろん、何も盗んではいませんでしたが、良寛は一言も弁明せずに黙っていました。やがて円通寺の修行僧だとわかって釈放されますが、「どうして弁明しなかったのか?」と訪ねられた良寛は「この身なりでは疑われて当然です。成り行きに任せようと思ったのです」と答えたそうです。なにごとも縁に任せることを信条とし、自らどん底を生きようとした良寛らしいエピソードだと思います。
■『NHK100分de名著 良寛詩歌集』より
- 『良寛『詩歌集』 2015年12月 (100分 de 名著)』
- NHK出版 / 566円(税込)
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