霧の哀感が漂う句──個にとどまらない抒情

『NHK俳句』に連載中の講座「びっくりして嬉(うれ)しくなる俳句」では、俳人の池田澄子(いけだ・すみこ)さんが、読んでみてハッとするような驚きの発見がある俳句を紹介しています。10月号の兼題は「霧(きり)」です。

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霧ときたら要注意。本当の霧に注意ではなくて、言葉の持つ哀感(あいかん)に注意です。自然現象の中の単なる一つとして向き合ってみましょうか。霧が抱かせる感情とはこういうものだろうと、早々に自分を縛しばらないようにしたいものです。
なんとなく靄(もや)がかかったような薄い霧もあれば、前の車が見えないほどの濃霧(のうむ)もあります。灯がやや滲(にじ)んで見えるくらいの霧、高速道路に濃霧注意報が出るほどの霧、湖をすっぽり隠してしまう霧もあります。
山などでは、夏でもいつでも霧が出て、あれは霧と言うよりも流れてきた雲に包まれるといった感じ。ですが俳句で霧と言えば、今頃の季節の現象を詠(よ)んだことになります。東京で暮らす私は知らないような霧がきっとあるのでしょう。
街燈(がいとう)は夜霧にぬれるためにある

渡邊白泉(わたなべ・はくせん)


景としては霧と街燈です。なんてロマンチックなこと、都会のメランコリー。そうだったのですか、街燈はそのために其処(そこ)に在(あ)ったのですか、と私は頷(うなず)きました。なんだか流行歌みたい、と感じる方もいらっしゃるでしょう。この句は名句なのか、おセンチな呟(つぶや)きなのか、ちょっと迷うところです。でも、とてもチャーミングで、それに、こんな句は見たことがない。このような前代未聞の独断には俳句で出会ったことがなかった、という驚きによって、私の愛いとしい名句の中の一句になりました。
個人的に嫌いでもいい、しかしそれまで俳句として見たことがなかった一句は、私は名句であると思うのです。
この認識と断定とムードは、個にとどまらない抒情であると思います。この句は街燈の代理として語られているのかも。こんな俳句もあるんだという驚きのあとで、俳句の広さと懐の深さを体感し勇気をもらいました。
さやうなら霧の彼方(かなた)も深き霧

三橋鷹女(みつはし・たかじょ)


こちらも、個人としての「さやうなら」とは思えません。この「さやうなら」は、何に向けての言葉なのでしょうか。鷹女は鷹女を離れて、「さやうなら」を姿、景色にしてみたかったのではないかと思ったりします。一句は作者、個人を離れて、誰のものにでもなれる、そんな気持ちになります。それは、一句の生まれ方、作り方が一種類だけではないことをも思わせてくれます。
■『NHK俳句』2015年10月号より

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