佐藤天彦八段、初めてのタイトル戦の舞台を前に

第63期王座戦で、羽生善治王座を相手に初の5番勝負を戦っている佐藤天彦八段。挑戦権を獲得するまでの心中を語った。

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7月下旬に行われた、第63期王座戦挑戦者決定戦。僕は、初めてのタイトル挑戦を目指して豊島将之七段と戦っていた。
これは僕の三度目の挑決だった。一度目は2011年の棋聖戦で、深浦康市九段に敗れた。二度目は、今年の4月に同じく棋聖戦で豊島将之七段と。一度目のときに比べ、竜王戦や順位戦のクラスも上がり、直近の成績もよかった。
それに、気持ちの面でも大きく違っていた。本誌上の連載等もあり、棋士としての認知度が上がったのか、応援の声をかけていただくことが増えていた。そんな期待に応えたい。大舞台での自分の将棋を観みて楽しんでほしい。そういったモチベーションが、確かな実感を伴って膨らんでいた。
豊島さんとの棋聖挑決は、中盤ではまずまずと感じていたものの、そこから混戦に。難解な終盤戦が続いたが徐々に悪化していき、ついに好転しなかった。最後まで諦めず、泥にまみれながらでも戦ったつもりだったが、僕はその一戦に敗れた。
タイトルに挑戦すれば、自分の将棋でもっと楽しんでもらえたかもしれないのに…。残念さと無念さがこみ上げた。しかし、戦いは続く。気持ちを切り換えなければいけない。約一週間後に行われた王座戦本戦1回戦。これも熱戦だったが、勝つことができた。幸い、その後も調子を大きく落とすことなく王座戦の挑決に進出。相手は、再び豊島さんだった。これはリベンジの機会と言えるかもしれない。だが、僕はただ激しく闘志を燃やすことよりも、冷静に自分の持てる力を発揮することを考えていた。
将棋は、中盤でよさを意識する展開になった。しかし、妥当な手を指していたはずが、いつのまにか難解に。そして、自分が軽視していた“ある手”を指されてその厳しさが分かったとき、一気に負けにしてしまったのではという思いに襲われた。
僕は、勝負の世界においても、一回の勝ち負けですべてが決まるということは実は少なく、その後の頑張り次第で届かなかったものを手にすることも不可能ではないと考えている。
だから、もしこの勝負に負けても、自分はそれを受け止められるはずだと思ってはいた。とはいえ、短期間に同じ相手に挑決で2連敗はしたくないという感情もやはりあった。それに挑決はこれが三度目。負けたときのつらさを想像すると、支えてくれる人に助けを叫びたくなるような気持ちになった。
だが、そんな厳しい未来を回避できるのは自分しかいないこともまた分かっていた。
そのことを萎(な)えそうになる心にたたき込む。僕は再び集中力を取り戻し、有利さを保つ指し方をすることができた。
タイトル挑戦は終わりではない。しかし、僕にとっては目の前のひとつの壁だった。そして、泥の中を進むような重々しさを感じながら、僕はその壁をなんとか乗り越えることができた。
初めてのタイトル戦の舞台。そこに待ち受けている壁に、思い切りぶつかりたい。
■『NHK将棋講座』2015年10月号より

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