ダーウィン進化論に生じる誤解

『種の起源』(1959年)で、ダーウィンは「生き物は変化していく」ということの科学的議論の詳細を初めて世に打ち出した。その変化は「生存競争」と「自然淘汰」の中で徐々に起こるものであるとダーウィンは考えたが、これを誤解している人が非常に多いと進化生物学者・総合研究大学院大学教授の長谷川眞理子(はせがわ・まりこ)氏は指摘する。

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進化の考え方は、人間の行動や生態、いわゆる「人間の本性」を知る手がかりにもなっています。学問で言うと、生物進化から人間の本性を探っていく「進化心理学」がそれに該当します。しかし、進化の理論で「人間とは何か」を考えていく際には、注意が必要です。それは一歩間違えるととんでもない誤解を生む恐れがあるからです。
たとえば、進化の考え方を資本主義のイデオロギーと結びつけて「優れた者が劣った者を蹴落として、富を手にするのは当然だ」と考える人がいます。自然淘汰の論理を「強者の論理」ととらえてしまうと、そうした誤解が生じるようになるのでしょう。そう考える人の頭のなかには、梯子型の進化の図があり、てっぺんには人間が立っているのでしょうが、繰り返しになりますが、ダーウィンの理論には、優れたもの、劣ったものという概念は存在しません。下から上に向かっていくのが進化でないことは、十分すぎるほど強調しておく必要があります。
また、「適者生存」(survival of the fittest)という言葉も一人歩きしています。もともとはイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーが著書『社会進化論』のなかで使った言葉ですが、ダーウィンの「自然淘汰」と混同している人が少なくないようです。ダーウィン自身はこの言葉が気に入らず、使いませんでした。スペンサーが示したのは、社会は低次から高次へと進歩していくという単純な理論で、ダーウィンの進化論とは別物です。スペンサーの適者生存は先ほどの資本主義の話と同じで、梯子のてっぺんを目指していくための勝ち残り競争が前提となっています。対してダーウィンが唱えた「自然淘汰」は、環境に適応しているか否かが生存と繁殖にかかわるということであって、「目的や絶対軸」ではありません。環境が変われば、またゲームは一から始まるわけですから、スペンサーの適者生存とダーウィンの自然淘汰ではまったく意味が異なるのです。
さらに、ダーウィンの進化論を曲解したことで生まれた間違った考え方の最たる物と言えるのが、第二次世界大戦中にナチス・ドイツのヒトラーが提唱した「優生主義」です。優生主義とは、「知的で優秀な人間」「社会的に有益な人間」をつくるために、遺伝を操作して人類の進歩を促そうという考え方です。ヒトラーはドイツ民族を世界で最も優秀な民族ととらえ、それ以外のユダヤ人などを絶滅させようと企てました。これが悪名高き、悲惨なホロコーストです。が、もちろんダーウィンの進化論とは何の関係もありません。
これまで見てきたように、『種の起源』を読めば、これらがすべて誤解であることは明らかです。科学の理論として、進化理論はこのような考えとは無縁です。また、ダーウィン自身は決して差別主義者などではなく、むしろ奴隷制度や黒人差別に対して反論を唱えていた人物でした。
ダーウィンが生きた19世紀は、ちょうどヨーロッパで奴隷制度廃止運動が高まっていた頃と重なります。ダーウィンがビーグル号で旅をしていた1832年に、イギリスでは奴隷制度廃止法が制定されましたが、ヨーロッパにはまだまだ奴隷差別が根強く残っていました。旅の途中に立ち寄った南米でも、彼は奴隷の悲惨な現状を目にしています。実は、そうした不平等な社会に対する憤りが、ダーウィンの研究の背後にあったのではないか──。「生き物はすべてひとつであり、生き物には上下など存在しない」という論理は、そのまま人種にも置き換えることができると思うのです。ダーウィンがもしあの世で、後世自分の進化論が、「差別を肯定する論理だ」「強者の論理だ」なんていわれているのを知ったらどうでしょうか。さぞかし頭から湯気を出して怒るのではないでしょうか。
■『NHK100分de名著 ダーウィン 種の起源』より

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